禅
1 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:20
おまいら議論もいいけどさ、
次スレ立てる心の余裕ぐらい持てや。
前途多難やな。。。。
一応前スレ
『「禅」ってかっこいいんだけど・・・』
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1060963887/l50
2 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:21
>>1
シンプル過ぎないか?
3 名前:机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 20:24
2ちゃんの論客もレベルがあがったね。
半年前だったら考えられんよ。
だいたい、私と論陣はれる人がいなかったんだからね。
で、ケムール人とかは紛れてないんだろうな?
あの人は、ガチガチの唯識論者だった(>_<)
4 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:28
虚飾を取り去るのが禅
されど
虚飾と上手に付き合うのも禅
5 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:30
論陣ねぇ・・・・
四方八方にベクトル拡散するのが禪の魅力だと思うが。
6 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:31
>>3
いやいや、レベルが上がったんではなく、合わせているの。
7 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:39
>>3
>半年前だったら考えられんよ。
半年前を如何様にして考える?
記憶の習気に心奪われるなかれ
>だいたい、私と論陣はれる人がいなかったんだからね。
>あの人は、ガチガチの唯識論者だった(>_<)
唯識とは、そんな簡単に体得出来るもんじゃないのよね
馬の耳に、一心不乱に念仏を聞かそうとしないだけなのよ
わかりますか?
分別できますか?
シムパイだな〜
8 名前:名無しさん@3周年 :03/10/13 20:43
>だいたい、私と論陣はれる人がいなかったんだからね。
おまえはいつもそのようにしてかまえているのかい
かまえるものなんてあるのかい
9 名前:机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 20:48
>>7
かつて唯識論者と被ったことがあったけど、
やはり唯識は常見に拘るようだね。
わたしはあまりそれには拘らないけどね。
そこのとこで全く食い違ってた。
つまりは、唯識論は常見のところは触ってもらいたくないんだろう?
そういう印象派ありけどね。
それは私に敏感に伝わってきたね。
やっぱりそれは、触ってもらいたくないんだろうね。
それが崩れるのも不安なのかと思う。
736 名前:名無しさん@3周年 :03/11/02 15:11
『唯識の心と禅』(本文中より)
道元禅師は「私曲を存せず」とおっしゃいます。私に曲げてしまうんです。私曲を存せず
ということがこれが容易なことではない。どこまでできるのか。唯識では、最終的にど
こまでいっても汝は、汝の主観から離れられないといいます。仏さまと出会うのも、それ
も唯識では、自分の心で出会う。仏さまに出会うのも、自分の心で出会う。
思量を捨てろ、思量を捨てて、自分の計らいを捨てろ。それによって我々は仏道に触れ
うると思っていますけれども、唯識は、いや、まだだめだ。汝の心の中には、まだま強い
主観性が潜んでいるじゃないか。主観で見ながら、本物を見たつもりになっていないか。
私曲を存せず、いや私は、お釈迦さまの教えをそんなに手前勝手に見たりしてません。た
だひたすら無我に徹して、お釈迦さまの教えを学んでいます。その心意気は立派ですが、
現実的には、我々は、自分のため込んだ文化を、脱することができないで自分の中にある
価値観を踏まえて見ている。
悟りを求めないとか、ただひたすら坐れという言葉の中に、個人の人間の計らい、思い、
希望というようなものを捨てて坐る。それが、恐らく只管打坐だと思いますが、容易なこ
とではない。ちょっと坐ってみて、分かったようなことをいってはいけないんじゃないか
なと思います。
ひたすら、只管打坐が続けられるそういう境地になったときに、どこまでその自己とい
うものが清らかな只管打坐になりえているか。どこまでもどこまでもその主観の働きとい
うものが、くっついてくると見るわけです。.それを唯識では、万法唯識といいます。諸法
不離識ともいいます。
951 名前:名無しさん@3周年 :2005/10/06(木) 01:52:05 ID:WUNtHIaj
原始仏教の三学の「定」は、現代の坐禅の実習にほぼ同じである。
ただし、戒、慧、解脱、解脱知見の裏づけがある「禅定」でなければならない。
その点で、「目的がない坐禅」などというと、戒も慧も解脱も解脱知見もないので、
原始仏教の禅定とは異なる。すなわち、目的のない坐禅をしていると、たとえば、
自覚なしに戒を犯す、解脱、解脱知見を知らないということになる。
すなわち、慧がない、解脱知見(悟りの智慧)がない。解脱の自己の智慧がないので、
ただ、自我の強情で、心の安定状態を作りあげていることになる。
他の宗教の各種の行や、スポーツや芸術などの精神集中でも得られるものであろう。
962 名前:名無しさん@3周年 :2006/01/15(日) 17:07:29 ID:ZWHkw1zE
ぐちゃぐちゃ語れば語るほど禅から遠のいていく。
禅に言葉は要らない。空の世界だ。
967 名前:全て空、色即是空 :2006/01/25(水) 19:30:08 ID:VwiKdccW
ただ座る。ただ目を閉じる
968 名前:名無しさん@3周年 :2006/01/25(水) 21:35:54 ID:ZVNmKGki
禅の世界などというものがないのが禅だ
973 名前:名無しさん@3周年 :2006/01/27(金) 23:11:05 ID:Iv9SuRGn
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/zinntuurikizzz.htm
天眼通とは一切の世界すべてを見通せる、餓鬼道や畜生道の有様もことごとく透明に見える
仏様の眼です。うまい物を見て我先に手を伸ばそうというのはいう眼は餓鬼道の眼、文句を言う
ときの眼は修羅の眼、嫌いな虫を殺すときには殺生の眼ということになります。
即ち天眼通とは坐禅の時の眼です、ですから、坐禅の時には眼をつむってはいけないのです。
974 名前:名無しさん@3周年 :2006/01/28(土) 12:02:21 ID:10g354vK
盲人はどうする?
禅宗は身障者を拒絶するのか?
975 名前:名無しさん@3周年 :2006/01/28(土) 13:52:15 ID:yjdXAf5V
解釈が歪んでるよ
976 名前:ネオ ◆XRhOafI0.w :2006/01/28(土) 14:10:11 ID:uqUb7sAR
目を閉じていても、開いていてもいっこうにかまわない、
ただ、開いていた方が雑念が少なくてすみ、見ていること(今ここ)にとどまり易いからだ、
だから坐禅が坐禅をしていればどんな姿勢でもいっこうにかまわない、これから坐禅をする方は一度、普勧坐禅儀通り試してみて、
それで坐れるならそのほうがいい、出来ないなら楽でいい、ただ背筋は正しておいたほうがいいと思う、
977 名前:名無しさん@3周年 :2006/01/28(土) 14:15:48 ID:yjdXAf5V
そうだね。肩の力を抜くとかね
978 名前:名無しさん@3周年 :2006/02/08(水) 01:33:53 ID:2lapciJF
ちんちんしゅっしゅっ!
アンパンマンのAA
979 名前:名無しさん@3周年 :2006/02/08(水) 02:03:59 ID:tjWXumsa
うー