ファウスト


ゲーテ
集英社文庫






捧げる言葉

 さまざまな姿が揺れながらもどってくる。かつて若いころ、おぼつかない眼に映った者たちだ。このたびは、しっかりと捕えてみたい。いまもなぜか、あのころの夢に惹かれてならない。さまざまな姿がひしめき合ってやってくる! 霧と靄をついて迫ってくる。その不思議な息吹きにあおられて、この胸もすっかり若やいだ。

 楽しかったことのことがよみがえってくる。やさしい影が立ちあらわれ、半ば消えた古い物語のように、初恋や友情がもどってくる。せつなさ、往き迷った人生の嘆き。つかのまの幸せにあざむかれ、花の盛りにどこかに消えていった人々を呼びもどしたい。

 最初の歌に耳を傾けてくれた人も、いまはもう聴こうとしない。友人たちとの大騒ぎも昔がたりだ。はじめの反響もあとかたもなくなった。たとえ見ず知らずの人々にひびいて、喝采されても、むしろ苦痛だ。よろこんでくれた者たちにしても、まだいのちがあるにせよ、この世に往き迷っている。

 静かな、おごそかな霊たちの国への憧れだ。それを永らく忘れていた。ささやきの歌は風の竪琴のように、かぼそく中空へ消えていく。ふと戦慄を覚えた。涙がこみあげてくる。はりつめていたものが、おだやかに溶けていく。いま持つものは、はるか遠くに見え、消え失せたものが、いきいきともどってきた。



開演前

座長、座付き作家と道化

座長  おふらちはこれまで、困りはてたときには何度となく助けてくれた。だから教えてもらいたいのだが、いまドイツでは、いったいどんな芝居が大当りするものかね? だれも楽しみたがっている。望みをかなえてやりたいじゃないか。
 小屋もできた。舞台の用意もととのっている。晴れやかに開幕といきたい。見物衆は腰を据え、いまや遅しと待っている。アッといわせてやりたいものだ。座長として楽しませ方のコツを知らないでもないが、このたびはとんとお手上げ。といって、かくべつ、この連中の目がこえているというんじゃない。ただ、むやみといろんなことを知ってやがる。あらためてこれをアッといわせ、かつまた手を打って感心させるのは並み大抵のことじゃない。
 いちど大当りをさせてみたいじゃないか。わんさと木戸口につめかけてくる。夜までとても待ちきれず、夕方の四時前にはやくも押すな押すなの盛況で、飢饉のころのパン屋の店先みたいに、入場券一枚をめぐって、つかみ合いの喧嘩騒ぎとねがいたい。座付き作家たるもの、ここはひとつ、目にもの見せてもらおうじゃないか。
座付き作家  あの連中のことは、いってほしくありませんな。ひと目見ると気持が萎える。うぞうむぞうはまっぴら、とてもじゃないが、お相手できかねる。それよりも静かな天上の片隅に、そっといさせてほしいものだ。愛と友情が祝福してくれる。神々の手が助けてくれる。
 胸の底からこみあげてくるものがあるのに、口に出すと何てこともない。とんだできそこないと思っていると、そいつがうまくいくこともある。まことにままならないものでしてね。何年かしたがポッとうまくまとまったってケースもある。とにかく、あまり派手やかなのはくわせもの、ほんものはずっともちがいいものですよ。
道化  もちがよくてどうなんだ。このいまウケなくては何にもならない。笑わせるほうの苦労も知ってもらわなくちゃあ。とにかく客は笑いたがっているんだ。そのために木戸銭を払っている。
 気のきいたのが舞台に一人いれば、まあ、何とかなるだろう。気持をつかむすべをこころえてますからね。その点、客の多いほうがやりやすい。だからこそ腕によりをかけて、いろいろにぎやかなものにしてもらいたい。まじめなやつ、おかたいの、お涙頂戴でも、お熱いのでも何でも結構。ただし、いっとくが笑いがなくてはなりませんぜ。
座長  とにかく、うんと見せ場をつくろう。何だっていい。見せ場がありさえすればいい。つぎつぎとくり出すんだ。みんなが口をぽかんとあけて見とれていれば成功うたがいなし、ドッとくる、となればあなたは人気作家だ。数には数をあてがえばいい。あちらさんはめいめい、手前で何とかするだろう。そのあげく、ほくほく顔で帰っていく。筋は一つでも、こまかく区切ってアヤをつける。色どりがそろっていると、ご機嫌なものさ。腹にもたれるのはいけませんな。こなれの悪いのもだめ。ドンと丸ごと差し出してみても、どうせ見物の衆は、つまみ食いが大好きなんだ。
座付き作家  そういうつくりものが、そもそもよくないってことが、わかりませんか? 詩人の魂には、とてもじゃないがつとまりませんね。ペン先お上手な先生のでっちあげを、そんなにお望みですか?
座長  悪口をいいたければいうがいい。しかし、効果をあげるには、いい道具を使わなくちゃならないし、軟らかい木を削るときは指先をよく見ておかなくてはね。
 いったい全体、小屋にくるのがどんな連中だか、ごぞんじか。退屈まぎれに来るのもいれば、食いすぎたあとの腹ごなしにやって来るのもいる。いちばんひどいのは、新聞の劇評を見て駆けつける手合いだ。まるで仮装舞踏会へでも行くようにいそいそとやって来るのは、ヤジ馬根性のせいですしね。女連中ときたら念入りにお化粧してきて、礼金なしに客席でお芝居をしてやがる。
 詩人の高みで夢見ていて何になるね。大入りの小屋がうれしくないとでもいうのですか。客筋をよくごらんな。半分はうわの空、半分は野暮天だ。幕が下りたら賭けトランプをもくろんでいるのもいれば、辻の女と大汗かいて乳くり合うつもりの者もいる。そんなやからのために詩神とやらを苦しめてみてどうなるね。何が何でも、どっさりとくれてやる。手をかえ品をかえてやりさえすれば、連中は大よろこびだ。おっと、どうしました、感服したのか、それとも不服でもあるのか。
座付き作家  そんなことならよそを探して、手ごろな書き手を見つけてくることです。詩人にはとびきりの権利ってものがありましてね。自然から授かった最高の権利であって、それをおまえさんごときのために捨てなくてはなりませんかね。
 人を感動させるのは何の力だ? この世を思うようにできるのはどうしてだ? 胸の底からこみあげてくるものを、ひびきよく胸にまた呑みこませる。生のままの糸は、ただむやみに長いだけで、意味もなくつむぎ出されてきただけのことだ。何であれ元のものはゴタゴタと勝手に音を立てているだけ。これにめりはりをつけ、リズムに仕立てるのはだれですかな。すてきなハーモニーにまとめるのはどんな人です? わけもなく吹きつのる風を情熱の嵐にかえるのは、どこのどなただ? 赤焼けの夕陽をキラキラ輝かせるのは、どちらさまだね。恋人の足元にだれが春の花をまいたのか。木の青葉はただそれだけのしろものだが、形よく編むと栄誉の冠になる。オリンポスの山をつくるのは人間の手であって、そこに神々がやってくるのですね。そんな人間の力はわけても詩人がになっている。