読書をする


神道の先生にメールでいろいろ質問していたら「大いに哲学をしてください」と哲学を勧めてきた。他人がスノッブにも哲学なんてすることは、普通気にくわないものであるが、自信と愛情があればそれを大いに勧めることが出来る。宗教団体は読書や哲学をしている者に対して卑屈になるケースがある。すなわち修慧こそ宗教の要であるので、観念学をするような者を下にみる傾向がある(そのようにして自己愛を埋め合わせている)。まぁ実際に口先ばかりで悟れる風情になってる者は多いが。しかし瞑想は哲学の実践ではないのか?読書は修業ではないのか?なぜ貴方の宗教の教えを学ぶことや坐禅や修業する事を糾弾しないのか。 自分が通っている寺の信者は僕に向かって「○○君はパソコンでなんでも調べられるからよく知っているだろうけど」と誉めるように言い続けていた時期があった。それは管長様に「最近の人はインターネットでなんでも知ることができるから自分は知っている自分は知っているとわーわーとなってしまう」と言っているからだった。彼の場合は宗教信者に多い自己愛性人格が原因であったが。
読書は修業である。たしかに知識を得たら人はそれを誇るが、坐禅をして修業をして意気衝天する事と同じである。勉強をして知識を得る事のみが魔に通じているわけではない。外道の制多とか二乗の輩とか言うだろう。
読書をするのはたとえそれがプラトンの『饗宴』でも素粒子のことが書いてある科学誌でも苦痛である。読み始めれば興に入ることもあるが、始めるまでが面倒くさい料理のようなところもある。難しいものほどそうである。ネットのように簡明で短くないから、坐禅のような根気を必要とするところもある。
(かといって漫画が悪いとは言ってない。最近の調査では我々の知能は文字のみではなくイメージがあった方が事物をよく覚えているとの事で学校の教科書にはおめめがぱちくりしたキャラが登場している。もはやその絵柄はゆるキャラではない)。
読書は苦痛で修業である。とはいえ慣れはある。頭の中で音読をしないだけでも速く楽に読むことができるようになる。脳内で音読をするとその分余計なエネルギーサンプションがある。苦労をして読んだ分だけ得るものはあるが、変換の苦労は読書内容を吸収する事とは別の修養になっている。



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