− 1.ギリシアの思想 −
紀元前5世紀になると、ソフィストとよばれる職業教師たちによって人間や社会についての議論がさかんに行われるようになった。ことに、新しく政治の中心地となったアテネには、地方の植民都市から多くのソフィストがやってきて、青年たちの注目をあつめた。
ソフィストたちはポリスからポリスへとわたり歩いて広い知識をもち、その議論にも一種の新しさがあった。たとえば、法律や道徳にも国によって違いがあり、善悪や正邪の基準もけっして絶対的なものではないと論じたりした。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という表現は、ものごとの真偽をはかる物差し(尺度)はひとりひとりの人間の考え方や感じ方のなかにあるということを意味している。
だが、ソフィストたちのもたらした「新思想」は、自由なものの考え方を普及させる効果もあったが、しだいにそれが行き過ぎて、個人主義・相対主義の考え方をはびこらせた。もともとソフィストには、「真理」を求める気持ちはそれほど強くなく、巧妙な説得の技術(弁論術)を用いて、人々の注目を引けばそれでよいというところがあった。ソフィストの主張がもてはやされるにつれて、人々のあいだに価値観の混乱が生じ、社会を結びつけるきずなは弱まっていった。
− 5.中国の思想 −
『論語』によると、「君子は、だれに対しても広く公平な心で和合しながらも定見をもっているのである。小人は、付和雷同しながらも、心の底から和合することがない。」
たいせつなことは、私欲をおさえて(克己)、正しい社会生活の秩序を守ること(復礼)である。
小人は、逆境に耐えることができない。しばらく耐え忍んでも、まもなく苦しまぎれに悪いことをはじめる。また、順境にあって幸福を楽しむこともできない。はじめは、自制して慎んでいるが、やがておごりたかぶって、自分を見失う。ただ君子だけが、幸運のときも、不運のときも、超然として正しい社会生活をおこなうことができる。君子は、このようにして、自分を欺かず(忠)、人をおもいやり(恕)、他人を欺かず(信)、自分にあたえられた天性の修養によって完全に実現していくのである。利欲によって動くのではなく、いつも天地に恥じない正義の大道を歩むのである。したがって、君子は、一芸一能に秀でることで満足するのではなく、人間の基本としての正しい人生観を確立し、ものごとに惑わず、天命を知って、天地自然の秩序を楽しむことができる。
養老孟司の「超バカの壁」より
2.自分の問題
[脳は勝手に動く]
実は意識的自己がすべてだという西洋的な考え方は、脳科学の視点から見ても限界があります。たとえばあなたが何か喋るとする。「おい」でも「バカ」でも何でも構いません。実はその言葉を意識する瞬間の一秒前に、あなたの脳はもう動き出している。意識する前に脳が勝手に動いていると言ってもいい。実は意識してから喋っているのではなく、その前に脳は何かをいうように動きだしているのです。
こちらが意識する前に脳はどう勝手に動いているのか。それはそのときに身体が置かれた状況で決まるのです。これが「衣服足りて礼節を知る」ということです。置かれた条件で脳の動きは決まってしまうのです。どんなに頭のほうだけで、真面目に礼儀正しくやろうとしていても、衣服が足りなければそううまくはいかない。中略
意識的な自我があってそれがすべて支配できるというのであれば、それは大したものです。アウシュビッツ収容所においても人間らしさを忘れなかったコルベ神父という聖人がいます。意識がすべてならば、その気になればだれでも彼のような聖人になれるということになる。しかし、実際にはそうではなかった。だからコルベ神父が伝説となって語り継がれる。
では皆がコルベ神父になれなかったのはなぜか。なれないのがおかしいのかといえばそうではない。むしろコルベ神父はよほど脳みその丈夫な人だったのだと思ったほうがいいでしょう。ああいう極限状況でまともな人間として生きるのは難しい。
実は頭は、いいよりも丈夫なほうがいいことが多いのです。(過小評価ではないけど、何か足りないなぁ)
3.テロの問題
[大切なのは予防]
病気のことを考えていただけばいいかと思います。起こらなかった病気は治療できません。私が常に述べているのは病気にならないための予防です。中略
多くの人が一元論にはまらなければ、そもそもテロを起こそうなどという極端な方向へは向かわない。しかし、それで「テロが防げた」とは思わないわけです。なぜなら起こらなかったことを防げたというふうに人は思わないからです。多くの人が「防げた」と思うのは、飛行機に爆弾を持って乗り込む寸前の犯人を取り押さえたというようなケースでしょう。しかし、それはその事件を防いだということに過ぎないのです。
本当に大切なのは予防です。そして予防できれば、実は悪いことは起こらない。したがって予防の効果があったかどうかはわからない。常に言っている一元論への批判は、テロリストにならないようにしておくための考え方なのです。
こういってもなかなか納得していただけないかもしれません。テロが起こったのは向こうの考え方が悪い、思想に問題がある、それを予防するには相手の考えを変えさせてしまえ、と、すぐそのまま反応する。そうなると向こうを攻撃してしまう。それがテロの応酬です。
[保守の意味]
昔の人の方が意外にそういう「起こらなかったことの重要性」を知っていたように思います。社会について考えるときには、実はそういうことが理解されることのほうが大切なのだという気がするのです。
保守的というのは実はそういうことなのです。日々平穏というのは日常どおりのことをやっていて何も起こらないということです。それが実は予防ということです。
それは現代の普通の人の考え方とは違うかもしれません。多くの人は社会が進歩するというのは、どんどん変わっていくということだと捉えがちです。
でも、そうではなくて社会が本当に進歩するというのは、どんどん変化するのではなく日々平穏になっていくことなのではないでしょうか。つまり、我々が今防げない危険をだんだん封じ込めていけるようになることが進歩しているということになる。
それが根本的な意味で発展していることだと思うのです。その逆をやって不安だ不安だと言っているのが現代人です。起こる原因のほうは放置しておいて、結果のほうだけ何とかしようとしているように私には見えます。
[テロは倫理問題]
出口のところでブレーキを踏む、コントロールするのは何でしょうか。それが「倫理」です。出口のところで行動を規制する。
イエス・キリストによれば、「汝姦淫するなかれ」という場合、「みだらな思いで他人の妻を見る」ことだけでも「姦淫」にあたるとしています。これは出口よりも随分元へ戻って感覚についてまでコントロールしようとしている。普通は倫理というのは「汝殺すなかれ」というように行動を規制するものです。「汝殺すなかれ」のことを仏教でも「不殺生の戒」としています。この点ではキリスト教も仏教も同じです。
倫理というと、ついつい頭の中での抽象的な戒めだと思われるかもしれません。しかし実は出力=行動の規制なのです。
つまり単純に言ってしまえば、テロというのは倫理問題なのです。「そういうことはしちゃいけないよ」ということをしている人たち、規制が利かない人たちがいる。それは彼らには倫理がないからです。
倫理が大切だというのは人間社会で生きていくのにはわかり切った話です。だからあまり偉そうなお説教をしない仏教においても、不殺生の戒があるのです。
昨今は倫理問題と言われても、それこそ「いやらしい想像をするな」というような戒めだと思われがちです。どちらかというと倫理や道徳というのはその手前の規制のように思われやすい。しかし異性を見ていやらしい想像をすることは、ある程度は仕方のないことです。それをイエスのように、出口に到達するよりもはるか手前で規制しようとしても無理です。大切なのは実行に移さないことです。中略
結局、こういうテロに対して個人レベルで何かできることがあるか、「どうしたらいいでしょうか」と聞かれれば、個人のレベルでは何かする必要なんかないと言わざるをえない。自分がテロをやらなければいい。それだけです。
倫理とは個人の問題なのです。
飛不動尊
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