イエスキリスト 『山上の垂訓』


 「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。
 あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。
 あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着を拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取り戻そうとするな。人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆるり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」

 虐められた人はこの世の理不尽さを知っている。人間の都合のよさを知っているから八聖道・三聚浄戒・十重禁戒に邁進する事が可能になるのだと思う。普通の人には出来ない。自我が肥大しているから反発喰らう。旨いものばっかり喰っているからご飯のおいしさでは飽き足りない。優しさや無常観は自分の弱さを自覚するところから生まれる。虐められて苦しんだ経験を糧に慈悲が宿されればそれに越したことはない。でもこれは理想論であって、通常はエス(自我の一貫性にとって邪魔になる記憶・無意識)が拒絶する。自我の安全を脅かすものを攻撃・排除しようとする。虐められた人は、性格の悪い社会人になるか聖人になるか、二手に分かれる傾向にあると思う。


 「盲人は盲人の手引きができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。弟子はその師以上のものではないが、修行をつめば、みなその師のようになろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁を見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除けるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取り除けることができるだろう。悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。」

 浄土真宗には「勝解者」という言葉があるが、これの意味は「真実の法と不実の法が、はっきり領解できた人」。これは人生経験からくる判断力。今の時代、宗教には騙されなくても宗教でないものに騙される。騙す側に騙すつもりはないのかもしれない。cf:普勧坐禅儀


 「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである。」

 信仰者にとっては宗教の教えは〔たとえば「神を愛し、隣人を愛しなさい」も〕単なる道徳律ではなく心の修養法である。その教えを実践する事で人間本来の自然を取り戻そうとしている。生体レベルで。