佐藤俊明『修証義に学ぶ』

第二十八節 人類いかでか恩を知らざらん



純粋結晶


 今日私どもが仏さまに出会い、尊い教えを聞くことができるのは、実に仏さまや祖師の方々が仏道を実地に行じ、それを失わぬよう護持して来られたおかげであります。
 達磨大師は第二十八代目の祖師ですが、晩年になってから、三年の歳月を費やしてインドから中国に渡来しました。交通未開のころ、しかも老齢の身をもって未知の国に向かうその勇猛心は、身心を惜しむ凡人には思いも及ばないところで、これは、ただひたすらに正伝の仏法を伝え、迷える衆生を救おうという大菩提心から生まれた尊い仏行であります。
 大通元年(527年)9月21日、達磨大師が広州府に着いたことを知った梁の武帝は、人を派し、大師を金陵(いまの南京)に迎え、「自分はこれまで寺を建て、経を写し、僧尼を供養してきたが、どんな功徳があるか」とたずねました。
 達磨大師は、味もそっけもなく、「無功徳」と答え、色よい返事を期待していた武帝を失望させました。
 武帝の機嫌をとればよいのに、とは凡人の浅慮で、正伝の仏法を伝える誓願一筋に生きる達磨大師には、妥協や迎合はみじんもなかったのです。問答数番に及びましたが、「仏心天子」といわれる梁の武帝も、結局は現世の利益を求めるだけの低次元の仏教信者に過ぎないことを知った達磨大師は、揚子江を渡って魏の国におもむき、崇山の少林寺にとどまり、壁に向かって九年間坐禅しました。それで人びとは「壁観波羅門」と呼びました。
 この達磨大師のところに、神光という名の修行僧が訪れました。時は12月9日で、雪が山を埋め、峰を没していました。神光は、雪を踏み分け道を求め、ついに達磨大師のところにたどり着きました。深山高峰の冬の夜は、屋外に立っていることはできそうもなく、竹の節さえ割れる寒さでした。しかし、達磨大師はふり向きもしない。神光は、眠らず、坐らず、休まず、雪中に直立不動のまま立ちつくしました。降りつもる雪は、神光の腰をうずめ、落ちる涙は凍って玉をなし、衣服は凍り付いて、さわると一様につららが立っている。全身は冷え切っているが、求道の心の光は赤々と燃えていました。
 夜が白々と明けかけたころ、達磨大師はようやくふり向いてたずねました。
 「長い間、雪の中に立って、一体何を求めようとしているのか」
 「お願いです。お慈悲をもって真実の仏法をお示しください」
 涙ながらに懇願する神光の言葉に対する達磨大師の言葉は氷よりも冷たいものでした。
 「仏法を求むるは命がけである。小徳小智のものが軽々しく慢心をもって真実の仏法を求めようとしても、それは無駄なことだ」
 神光は、この言葉をきいて、いよいよ志を固め、ひそかに利刀を取り出し、自ら左のひじを斬りおとして達磨大師の前に差し出しました。ここではじめて達磨大師は、神光こそ方を継ぐに足る人物と見抜き、入門を許しました。
 こうした話は『正法眼蔵』「行持」の巻に数多く紹介されておりますが、釈尊はじめ歴代の祖師がたが、一器の水を一器に移すように、その全境涯を残さずもらさず伝え、弟子また個我を離れて師の教えに純粋結晶する、これを単伝というのです。一器の水を一器に移すとき、そっくりそのまま全部移さないと、不純物が混入することになり、そうなると真実の仏法も水割りとなって純粋な結晶もできなくなり、従って長続きしなくなって今日まで伝わらないのであります。さいわい仏祖が単伝してくださったので、私たちはいま見仏聞法ができるのであります。だからわずか一句の恩でも一法の恩でも報謝すべきであります。ましてや仏祖正伝の尊い仏法が伝承されてきた大恩に対しては、これに感謝し、その恩に報いないではおられません。