修証義

第一章 総序

第一節
自己の生きている意味を明かし、死および命とは何かに決着をつけることは、仏教徒にとって、ふたつとない大切な修行のご縁です。現実の生き死にのなかに仏の真理があるから、生き死にを選り好みすることはありません。損得抜きに、この生き死にの真実に自己の都合をさしはさむことなく、静寂なさとりの場であると得心して、苦しみの生き死にとして逃げ出そうとしてはいけません。しかし、この人生がそのままさとりだといって、喜んでおぼれていてもいけません。そう腹が決まったとき、はじめて生き死にというこだわりを離れて、その人なりのよき人生になります。ただただ、かけがえのないご縁として、腹を据えていきたいものであります。

第三節
命ははかなく頼りになりません。自分にはわからないのが露のような命なのです。いつどこの道の草に落ちないとも限らないのです。自分の命さえ私の思いどおりにはならないのです。ましてや命は、時の流れに流されて止まることはないのです。青年の光り輝く顔もいつしか面影を失い、いくら探してみても跡形もありません。よくよく考えてみると、過ぎ去った時間は二度と戻らないのです。はかなくもあっという間にやってきて、権力者も、政治力でも、親戚・友人でも、忠実な部下も、妻や子も、財産も助けることはできません。ただひとりきりで黄泉の国に行くだけです。自分についていくのは、ただ心でなした善と悪の行為と習慣だけなのです。

第二章 懺悔滅罪

第七節
仏や祖師方は、私たちの愚かさと悲しみに共鳴しているので、すべての人々を包む慈しみの門を開いて待っていてくださるのです。それは、すべての人々をさとりの世界に摂取しなくてはならないからです。人間界・天上界など六道 [地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界] に沈む迷いの人々は [さとりの世界に] 必ず入らなければならないからです。先に述べた三段階の悪しき心と行為の影響力は、自分の責任だからごまかしようはありません、しかし、仏に照らされて懺悔して謙虚になるとき、心も影響力も身軽になります、さらに罪の心と愚かさは無我の智慧によって包まれて清らかになるのです。

第三章 受戒入位

第十七節
すべての仏方はいつでもこのさとりのなかに安住しているから、いちいち働き・現象に人間的意識の跡が残っていないのです。さまざまな在り方の人々も永遠に、この清浄な<空>の安らぎのなかに包まれて、それを活用していてしかも、いちいちの働きの意識に汚れた迷いの跡は出てこないのです。そのとき、全宇宙に広がる真理の世界に包まれている土地も草木も垣根や壁も瓦や石ころにいたるまで、すべて仏の働きを生きているから、<縁起>という真理が起こすところの風や水の恵みを受けている生きものたちはみな、人知を超えた不思議な仏の働きかけに知らぬ間に助けられて、自ずから真理のさとりを実現しているのです。これを [人間的意志以前の] 無心無我の功徳というのです。これを作為のない真実の働く功徳というのです。これこそ、「さとりを求める心を起こす」ということです。



生を明らめ死を明らめむるは仏家一大事の因縁なり。・・・ 
このまえ夜寝る前読んでたら泣けてきた。
オーディオからバーバーの弦楽のためのアダージョが流れていたのもあるけど、なんか諦観というか断崖というか、迫るものがあって、入滅する覚悟みたいなのも感じられて仏様との因縁が運命にあったんだなぁとも思えたりしてそれらすべてがハーモニーになって癒された。


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