懺悔文

がしゃくしょぞうしょあくごう
我昔所造諸悪業
かいゆうむしとんじんち
皆由無始貪瞋癡
じゅうしんくいししょしょう
従身口意之所生
いっさいがこんかいざんげ
一切我今皆懺悔
【読み下し文】
我れ昔より造るところの諸の悪業は、
皆な無始の貪・瞋・癡に由る。
身・口・意従り生ずる所なり、
一切、我れ今皆な懺悔したてまつる。
むさぼり、怒り、愚かさは、悪いこととされるが、モラハラなどに遭って「怒り続ける経験」は心の奥底にあり見えないものを顕在化させるために、利用価値があるっぽい。人間はどうしても死への恐れとか、社会的にいい子であり続けるために怒りや怨恨を、無意識のうちに潜在化させている(インナーチャイルドの働き)。なぜ恐れるのか、怒るのか。意識の上にあるものなら説明できる。でも『懺悔文』には「私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、身体と言葉と心によってなされたものである。」(法楽寺の現代語訳)と書いてある。怒りの実体は、本当はそんなにわかりやすいものでもないようだ。それってそんな仰々しいテーマなのか?と、お経を読んではじめは思うかもしれないが、死ぬまで自分の怒りの本当の理由がわからない(明らめられない)人がほとんどらしい。甥っ子を見ていても思う。本人の記憶のないうちに、怒りを大人に理解されず昇華されずに押し込められている。自分も同様に、記憶のないうちに人格は形成されていたのだろう。仏教には「脚下照顧」という言葉がある。他人のことをとやかく言う前に自分の足下を見よ。『修証義』には「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と書かれてる。 ― なぜ、私はそれを怒るのか ― 自分にはわかる日がくるのかな。。まずは怒りや愚かさを認めるところから始めてみよう。




ぼくわるくないもん・・・。( ъ_ъ)
(∩∩) .



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