ドン・ジュアン

モリエール
岩波文庫




第一景

登場人物
ドン・ジュアン … ドン・ルイの息子
エルヴィール … ドン・ジュアンの妻
スガナレル … ドン・ジュアンの従僕
ギュスマン … エルヴィールの供まわり


スガナレル (煙草入れを手に持って)アリストテレスがなんと言おうと、哲学が束になってかかってこようと、煙草にまさるものはあるまい。紳士がたが夢中になるのもこいつだし、煙草なしに暮らす輩なんか、生きる甲斐もないくらいさ。煙草の徳は人間の脳みそを楽しませ、きれいにするばかりじゃない、品性高潔となり、紳士の道を覚えるのもこいつを喫るおかげなんだ。な、そうだろう、一服つければどなたさまにもお愛想はよくなるし、どこへ顔出ししても、喜んで右左にお愛想が振りまきたくなるじゃないか?他人さまから催促されるまでもなく、して欲しいことはさっさとしてやれる。まったくさ、煙草をのめばこそ、みんな名誉心もでき、品性も高まるというもんだ、さて、お談義はこれくらいにして、さっきの話を続けようじゃないか。そこでと、な、ギュスマン、おまえのご主人、エルヴィールの奥さまは、おれたちが旅に出たのにびっくり仰天、あとを追っかけたというんだな。うちのだんなにぞっこん惚れこみ、ここまで探しにこなけりゃ、生きる空もない、と、こういうわけなんだな。おたがいのあいだたから、打ち割ったところを話して聞かせようか?おれの考えじゃ、奥さまのせっかくのお気持もろくなあしらいを受けまいぜ。この町まで訪ねてきたって、いい実は結びそうになし、おまえさんたちふたりとも、どうやらむだ足を踏んだんじゃないかな。
ギュスマン という次第は?な、後生だ、スガナレル、話してくんな、どういうわけでそんな縁起でもないことを言うんだ?おまえのご主人がなにか打ち明け話でもなすったというのかい?嫌気がさして旅に出られたというのかい?
スガナレル そういうわけじゃないんだけどさ。持ち前の勘で、おれにはほぼ事の次第が読めるんだ。うちのだんなからはまだなんにも聞いちゃいないがね、行きつく先は見えてるよ。ひょっとしたら思い違いかもしれないさ。だがね、こうした問題となると、積もり積もったおれの経験がどうやらものを言いそうだよ。
ギュスマン なんだって?藪から棒のあの旅立ちは、ドン・ジュアンさまの浮気心からだったのか?エルヴィールの奥さまの真心を、これほどまでに踏みつけにして道理が立つというのかい?
スガナレル いやさ、うちのだんなはまだお若いし、そんな気持になりきれなかったのさ……
ギュスマン 高い家柄のおかたにしては、あんまりな仕打ち……
スガナレル ふん、家柄か!結構なお題目さね、それでだんながしたいことを我慢してでもくれるんならね。
ギュスマン それにしたってあのかたは、結婚の聖いきずなで縛られていらっしゃるはずなんだが。
スガナレル おいおい、ギュスマン、おまえさんには、ドン・ジュアンさまがどんな人間だか、まださっぱりわかっちゃいないんだ。
ギュスマン こんな不実を働いたのが、どんな人間か、まったくの話、おれにもわからん。どうにも合点がならないのは、あれほどまでに打ちこんで、やいのやいのとせき立てて、口説の限りを尽くしてさ、誓いは立てる、ため息はつく、涙は流す、思いのたけを文にこめ、殺し文句や約束のかずかず、さんざっぱら惚れたの、はれたの騒ぎ立てたあげく、エルヴィールの姫さまを手に入れたいばっかりに、のぼせあがって、神聖な修道院の垣根まで乗り越えた、そこなんだよ、それほどまでにしておきながら、よくもまあ二枚舌が使えたもんだ、こいつがどうも合点がいかねえ。
スガナレル おれにはすぐ見当がつくよ。おまえだってうちの大将を知ってたらわかるはずさ、そのくらい朝飯前だってことがね。なにもだんなのエルヴィールさまにたいする気持が変わったというんじゃないよ、そこまではまだはっきりわからない。知ってのとおり、だんなのご命令で、おれはひと足先に旅に出た、ご到着以来、まだお目通りもかなわないという次第さ。だがね、用心が肝要だ、ごく内々に、教えておこう、おれの主人のドン・ジュアンさまは、世にも稀なる大悪党、気違いの犬畜生、悪魔、トルコ人、異端者、天国も地獄もお化けおおかみも信じないようなおかたなんだ、けだもの同然にこの世を渡るエピクロスの豚、放蕩無頼の殿さまさ。どんな忠告も馬耳東風と聞き流し、おれたちの信じるものはみんな根の葉もないとお取りあげにならぬ。おまえのご主人さまと結婚したという話だが、色恋のためとあったら、うちのだんなはなにをしでかすか知れたもんじゃない。ご主人さまといっしょに、おまえだろうが、犬だろうが、猫だろうが、嫁にもらいかねないんだぜ。結婚なんて、だんなにしてみりゃ、ただの空手形さ。別嬪をつかまえるおきまりのわなさ、結婚の相手にお構いなしだよ。奥さん、お嬢さん、町娘、百姓女、熱すぎるも冷たすぎるもあったもんじゃない。あちらこちらで嫁にした女を、いちいち数えあげたら、日が暮れちまうよ。話を聞いてぎっくりか、顔の色まで変わったぜ。これだけじゃまだほんの上っつらを伝えただけさ、ありのままの肖像を描くとなったら、もっと筆数がいるよ。だけど、いつかは天罰がくだるに違いないさ。こんなだんなに仕えるんなら、いっそ悪魔の手下になったほうがましなくらいだ。嫌なことをさんざん見せつけられると、どこへでも消えて失せろと言いたくならあ。性悪なお殿さまなんてやっかいな代物さ。やりきれないと思いながらも、お役目大事に勤めにゃならず、怖いばかりに仕事に精を出す。腹の虫をおさえつけて、嫌でたまらぬことをご無理ごもっともで通すのも一度や二度じゃない。おや、お邸へ散歩に来たのはうちの大将だよ。別れるとしようぜ。ちょっと耳を貸しな。おまえにはこのとおり、ざっくばらんに打ち明けた、口を割るのがすこし早すぎたかもしれん。万一うちのだんながなにか嗅ぎつけでもしたら、そいつはおまえのでたらめだと、そうはっきり言っとくぜ。