J.J.Rousseau "Emile"

ルソー著:『エミール』抜粋



− 序文 −

 順序もなく、また殆ど脈絡もなく、ただ反省と考察を集めた。最初私は覚え書を羅列していこうと計画したにすぎなかった。ところが、否応なしに自分の主題に引きずられて、いつの間にかその覚え書は著作のようなものになってしまった。内容からみればたしかに長すぎるだろうが、しかしその扱う題材からみれば小さすぎるぐらいである。私はりっぱな教育の重要性については、ほとんど語らない。また現在行われている教育が悪いことを証明するだけにとどまりもしないだろう。それは他の多くの人たちが私よりも前にしたことだしわたしは誰もが知っていることで埋めるようなことはしたくないのだ。人びとは幼少年期というものを少しも知らない。だから誤った考えにもとづいて進めば進むほど迷ってしまう。もっとも懸命な人たちでさえ、大人の知るべきことだけに気を配って子供が何を学ぶのに都合のよい状態にいるのかは考慮しない。彼らはつねに子供のうちに大人を求め、子供が大人になる前にはどんなだったかは考えもしない。いわゆる体系的な部分、すなわちここでは自然の歩みに他ならないのだが、それについていえば、読む人をもっとも迷わせるのはまさにこの点であろう。また人びとが疑いもなく私を攻撃し、そしておそらくその人たちの言い分も間違っていないものもこの点なのである。人々は教育論というよりは、教育についての幻想家の夢想を読み気がするだろう。だがそれはどうにもならないのだ。わたしは他人の考えではなく、自分の考えを書いているのである。私は他の人たちと同じような見方を全くしない。そしてずっと前からそれを批判されてきた。だが、わたしには自分に他人の眼を与えたり、他人の考えに動かされたりする自由が許されるだろうか。そうではない。わたしに自由なのは、けっして自分の考えを固着せず、また自分一人だけが誰よりも賢い人間だとはけっして思わないことである。そしてわたしに自由なのは、意見を変えることではなくて、自分の意見を疑うことである。以上が私のできる限りのことであり、また私がしていることなのである。時に私が断定的な調子を取るとしても、それはけっして読者にそれを押し付けるためではなく、わたしが自分で考えるとおりに読者に語るためである。わたしは自分が少しも疑っていないことを、どうして疑問の形で提出できようか。わたしは自分の精神に浮かぶことを、正確に述べているのだ。わたしは自分の意見を自由に述べるとしても、それを権威づけようというつもりはほとんどない。しかし、頑固に自分の考えを弁護する気は少しもないとはいえ、やはり自分の考えを提案する義務があるとは思っている。というのは、私が他の人たちと反対の見解を持っている様々な原則はけっしてどうでもよいものではないからである。それは、真実か誤謬かを知るのが大切であり、また人類の幸、不幸を作る原則だからである。人々は私にむかって、実行できることを提案せよと繰り返す。それではまるで、人がやっていることを行おうと提案せよ、または少なくとも、現在ある悪と結びついた何らかの善を提案せよ、というようなものではないか。そういう計画はある種の問題に関しては、私の計画よりはるかに根拠のないものだ。なぜならばそういう混合物においては、善は損なわれ、悪は正されないからだ。よい実行法を中途半端に行うくらいなら、規制の実行法にすべて従ったほうがいいだろう。その方が人間の中の矛盾は少ないだろう。それに人間は相反する二つの目的を同時に追うことはできないのだ。実行できることとは、あなた方がしたいとの望むことなのだ。私はあなた方の意志にまで責任を持たなければならないだろうか。

 およそどんな計画においても、考慮すべき二つのことがある。それは第一に、その計画が絶対に優れていること、第二には、その実行が容易なことである。第一の点についていえば、この計画がそれ自体承認され、実行されるためには、その計画の長所が事物の本性の中にあればよい。たとえばここでは、提案された教育が人間にふさわしく、人間の心によく適していれば充分である。第二の考慮は、ある状況において与えられるいくつかの関係に左右される。すなわちその関係とは事物に付属するものであり、したがってすこしも必然的なものではなく、無限に変化しうるものである。だからある教育はスイスでは実行できるが、フランスでは実行できず、別の教育はブルジョワの間では行えるし、さらに別の教育は貴族の間では実行できる。

 万物を作る神の手から出るときにはすべてはよいが、人間の手に渡るとすべてが堕落する。人間はある土地に他の土地の産物を育てさせたり、ある木にはほかの木の果実を実らせたりして無理をする。気候や環境や季節を一緒にし混同する。自分の犬や馬や奴隷を不具にする。人間はすべてをひっくり返し、すべてをゆがめ、奇形を、怪物を好んでいる。自然が作ったままでは何一つ気に入らない。人間でさえもそうだ。乗馬のように、人間のために人間を仕込まねばならないのだ。庭の木のように、自分の好みに合うように人間をねじ曲げなければならない。だがそうでもしなかったならば、すべてはさらにもっと悪くなっているだろう。それに人類は中途半端に造られるのを望んでいない。現在の状態では、生まれたときからたった一人で他の人たちの間にほおりだされたままの人間は、誰よりもゆがめられた人になるだろう。様々な偏見や権威や必要や先例やわれわれがその中に埋没しているいっさいの社会制度は、人間の内なる自然を押しつぶし、その代わりに何物をももたらさないだろう。自然はそこでは道の真ん中に偶然に生えた潅木のようなもので通行人にあちらこちらから踏みつけられ、四方八方に折り曲げられたやがてかれてしまうのである。われわれの情念の源、他のあらゆる情念の始まりであり、根元であるもの、人間とともに生まれ、人間が生きている限り人間を去ることのないただひとつの情念、それは自己愛だ。アムールドソワ。それは他のどんな情念にも先だつ、根源的な、生得的な情念であり、時に私が断定的な調子を取るとしても、それはけっして人にそれを押し付けるためではなく、わたしが自分で考えるとおりに語るためである。わたしは自分が少しも疑っていないことを、どうして疑問の形で提出できようか。わたしは自分の精神に浮かぶことを、正確に述べているのだ。
※ 以前村上春樹と莫言氏のどちらがノーベル賞を受賞するか注目された折に、こんな記事を見かけた。― 中国では尖閣諸島の領有権を巡って、日本に対する強い反発が続いている。新浪網は、ノーベル賞について「愛国的」に騒ぐ風潮を批判するジャーナリスト・評論家のトウ海建氏の意見も紹介した。トウ氏は、2012年のノーベル文学賞受賞者が中国の莫言氏か日本の村上春樹氏になるとして、中国国内で興奮が高まっている現象を批判。崇高な文学作品そのものの価値に比べれば、ノーベル賞受賞は副次的な意味しかないと指摘するなどで、文学賞の受賞者選定を「日中対決の場」と受け止める風潮に警戒した。トウ氏は、「ノーベル賞について騒ぐよりも、しっかりと作品を読むべきだ。文学における憤青になるより、ずっと意義があることだ」と指摘した。「憤青」とは「怒れる青年」の意。社会に対して不満を持つ若者を指し、反日デモなどにおける破壊活動をする者も、多くが「憤青」とされている。(サーチナ)

文学作品は崇高だが、文学作品を学ぶ事はその次点。自然界や生き物は崇高で、それを科学する事も同様、自然そのものほど重要ではない。文学作品か自然科学のどちらの方が崇高か…決めることはできないが、音楽では:〔自然や神〕 → インスピレーション → 創作・具現化する努力 → 〔楽曲・作品〕 → 演奏 → 〔音楽学〕 → 応用 。という序列になる。文学作品は〔楽曲・作品〕の段階に相当し、自然科学を〔音楽学〕の段階に相当すると思う。神を至高の形とすれば、応用されたものは隔たった分だけ堕落した形となる(人間が神や自然を超えられるのなら話は別だが)。しかしルソーは性悪説に立っているのか、人間なりに応用しなければ野放しでより悪くなると考えて、エミールではどうしたらよいか具体的な考察をされている。教育の虎の巻。