J.J.Rousseau "Emile"

ルソー 『エミール』(中)
今野一雄訳 岩波文庫




− 第四編 −

 冒頭
 わたしたちはこの地上をなんという速さで過ぎていくことだろう。人生の最初の四分の一は人生の効用を知らないうちに過ぎてしまう。最後の四分の一はまた人生の楽しみが感じられなくなってから過ぎていく。はじめわたしたちはいかに生くべきかを知らない。やがてわたしたちは生きることができなくなる。さらに、この最初と最後の、なんの役にもたたない時期にはさまれた期間にも、わたしたちに残されている時の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、拘束、あらゆる種類の苦しみのためについやされる。人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、わたしたちは人生を楽しむ時をほとんどもたないからだ。死の瞬間が誕生の瞬間からどれほど遠く離れていたところでだめだ。そのあいだにある時が充実していなければ、人生はやっぱりあまりに短いことになる。

 P7
 情念はわたしたちの自己保存のための主要な手段である。だから、それをなくそうとするのは無益な努力、笑うべき努力だ。そういうことは自然を制御すること、神のつくったものをつくりなおすことだ。

 P8
 わたしたちの情念の源、ほかのすべての情念の初めにあって、そのもとになるもの、人間が生まれるとともに生まれ、生きているあいだはけっしてなくならないただ一つの情念、それは自分に対する愛だ。それは原始的な、人が生まれながらにもつ情念で、ほかのあらゆる情念に先立ち、ほかの情念はすべて、ある意味で、それの形を変えたものにすぎない。この意味で、すべての情念は自然のものといってもいい。しかし、そういう形を変えた大部分は、外部的な原因をもつものであって、その原因がなければけっして生じてこない。そして、そういう形を変えた情念は、わたしたちにとって有益なものではなく、かえって有害である。それは、最初の目標を変えて、その根元にあるものと反対のことをさせる。そこで人間は自然の外へ出ることになり、自分と矛盾することになる。

 P11
 人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人にくらべてみないことだ。人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつこと、そしてやたらに人々の意見を気にすることだ。この原則によれば、子供と大人のあらゆる情念を、どうすればよいほうに、あるいは悪いほうにむけることができるか容易にわかる。このむずかしさそのものが、人間関係がひろがるにつれて必然的に大きくなっていくのだ。そしてとくにこの点において、社会のいろいろな危険は、新しい必要から生まれる堕落を人間の心に生じさせないようにするための技術と心づかいを、わたしたちにとっていっそう不可欠のものにしているのだ。
 人間にふさわしい研究は自分のいろいろな関連を知ることだ。肉体的な存在としての自分だけしかみとめられないあいだは、事物との関連において自分を研究しなければならない。これは子ども時代にすることだ。道徳的な存在としての自分が感じられるようになったら、人間との関連において自分を研究しなければならない。これは今わたしたちが到達している地点からはじめて、一生かかってすることだ。

 P12
 ほんとうの恋愛は、人がなんと言おうと、いつも人々から敬意を寄せられるだろう。恋愛の興奮はわたしたちの心を迷わせても、そういう性質を生み出すことさえあるにしても、それにしても恋愛はいつも、すぐれた性質のあることを示しているのであって、それなしには人は恋愛を感じることはできないのだ。理性に反したことと考えられている選択は、じつは理性から生じてくるのだ。愛の神はめくらだといわれている。この神はわたしたちよりもするどい目をもっているからだ。そして、わたしたちにみとめられない関連を見ぬいているからだ。すぐれた点とか、美しさとかいうことについてなんの観念ももたない者にとっては、どんな女性でもけっこう、ということになり、最初に出会った女性がかならずいちばん好ましい女性、ということになる。恋は自然から生まれるなどとは、とんでもないことだ。それは自然の傾向を規制するもの、そのブレーキになるものだ。恋を感じればこそ、愛する対象を除けば異性はなんの意味もない存在になる。

 P13
 愛されることがどんなにうれしいことかわかっている者は、すべての人から愛されたいと思うだろうが、だれもかれも特別に愛されることを願うとすれば、その願いをかなえられない者がかならずたくさんできてくる。恋愛と友情とともに、不和、敵対、憎悪が生まれてくる。こういう多くのさまざまの情念が渦巻くなかに、憶見が揺るがしがたい王座をうちたて、愚かな人間たちは、その権威にしばられて、かれら自身の生活をひたすら他人の判断のうえに築いている、そういう光景をわたしは見ている。

 P14
 子ども時代から思春期への移り変わりの時期は、それほどはっきりと自然によって定められているものではなく、個人にあっては体質によって、国民にあっては風土によって、ちがってくる。この点について、暑い国と寒い国とのあいだにみとめられるちがいはだれでも知っているし、血の気の多い体質はそれほどでもないものよりもはやくできあがることもみんなが知っている。けれども、原因がまちがって考えられていることもあるし、道徳的なことのせいにしなければならないことが、肉体的なことのせいにされていることもしばしばある。これは現代の哲学にもっともひんぱんにみられる誤りの一つだ。自然の教えはおそくなってからはじめられ、ゆっくりとすすめられる。人間の教えはほとんどいつも時期に先だってあたえられる。自然の場合には官能が想像をめざめさせる。人間の場合には想像が官能をめざめさせる。想像は官能をはやくからはたらかせるが、これはまず個人を、やがては人間ぜんたいを弱く無気力にせずにはおかない。風土の影響ということよりも、もっと一般的に、そしてもっと確実にみとめられる事実は、教養のあるひらけた国民のあいだでは、無知で野蛮な国民のあいだにおけるよりも、思春期と性の能力がかならずいっそうはやくあらわれることだ。子どもは特有の明敏さをもって、礼節のあらゆる猿まねのかげに隠された悪い風習を見破ってしまう。人が子どもにつかわせる洗練されたことば、かれらにあたえる品をよくするようにとの教訓、かれらの目のまえに張り巡らそうとする神秘のとばり、これらはすべて好奇心を刺激するものとなるにすぎない。

 P15
 経験に照らして考えてみるがいい。そういう考えのないやりかたがどれほど自然の仕事をいそがせることになり、体質をそこなうことになるかがわかるだろう。これこそ都会に住む人間を退化させる主な原因の一つだ。青年は、はやくから生気を失って、体が彼本来の大きさより小さく、弱く、十分に発育しないままに、成長しないで老いこんでしまう。春に実をならせたぶどうの木が秋を待たずにしおれて死んでしまうのと同じことだ。
 粗野で単純な国民のあいだで暮らしたことがなければ、そういう国では幸福な無知がどれほど長いあいだ子どもの純真さをもちつづけさせるか知ることはできない。そういう国の男女が青春の美しい盛りになんの不安も心に感じないで子ども時代の無邪気な遊びをつづけ、かれらの親しげな様子そのものがけがれのない楽しみを示しているのを見るのは、感動的でもあり、ほほえましくもなる光景だ。そういう愛すべき若者たちがやがて結婚することになると、夫も妻もたがいにういういしい肉体を相手にささげ、そのためになおさらたがいにいとしい存在になる。
 人間が性を意識することになる時期は自然の作用と同じ程度に教育の結果によってもちがってくるとするなら、子どもの育てかたによってその時期をはやめたりおくらせたりすることができるわけだ。そして、その歩みをおくらせるかはやめるかによって体が丈夫になったりならなかったりするものとすれば、その歩みをおくらせるように努力すればするほど青年はいっそうたくましさと力を獲得することにもなるわけだ。いまのところわたしはたんに肉体的な結果について語っているだけだが、結果はそれだけにとどまらないことはすぐにわかるだろう。
 これらの考察から、わたしは、よく議論されている問題にたいする解答をひきだす。それは、子どもの好奇心のまとになっていることについてはやくからかれらに説明してやったほうがいいか、それとも、お上品なうそでかれらをだましておいたほうがいいか、という問題だ。そういうことはどちらもしてはならない、とわたしは考える。だいいち、そういう好奇心はきっかけをあたえなければ子どもに起こってこない。だからそういう好奇心をもたせないようにしなければならないのだ。つぎに、解答をあたえる必要のない問題は、それについて質問する者をだますことを必要としない。うそをついて答えるより、黙らせたほうがいい。どうでもいいようなことではいつも黙らせることにしていれば、そう命じられても相手は別に意外とは思うまい。それに、答えてやろうと決心したばあいには、できるだけ素直に、はっきりと答え、困ったような顔を見せたり、微笑を浮かべたりしないことだ。子どもの好奇心は、刺激するよりも満足させてやったほうが、はるかに危険が少ない。