J.J.Rousseau "Emile"

ルソー 『エミール』(中)
今野一雄訳 岩波文庫




− 第四編 つづき−

 P19
 「子どもはどうしてできるの?」 ごく自然に子どもに起こってくるやっかいな疑問だが、それにたいする不謹慎な解答、あるいは思慮深い解答が、一生のあいだのその子の品行と健康を決定することもある。息子をだますようなことをしないでそれをきりぬけるために母親が思いつくいちばんかんたんなやりかたは、かれを黙らせることだ。けれども、母親はそれだけですませるようなことはめったにない。「それは結婚した人の秘密です。」 母親はこんなことを言いきかせるだろう。「小さい男の子はそんなことを聞きたがるものではありません。」 これは母親を窮地から救いだすにはまことにけっこうなことだ。けれども、その小さい男の子は、そういう軽蔑した調子に頬っぺたをふくらまして、結婚した人の秘密を知るまではひとときも落ち着けないだろうということ、そして、遠からずその秘密を知ることになるだろうということを、母親は承知していなければならない。
 同じ質問にそれとはまったくちがった返事をしているのを聞いたことがあるが、それをおつたえすることを許していただきたい。それはことばづかいも態度もつつましい婦人の言ったことだったので、いっそう感銘が深かったわけだ。けれどもその人は、必要なばあいには、息子のしあわせのために、また、美徳のために、人々の非難や、おどけ者のむだ話の種にされはしまいかというつまらない心配を無視することができるひとだった。まだいくらもたたないころ、その子は尿といっしょに小さな結石を排出して、そのために尿道を傷つけたことがあった。しかしその痛みはもう忘れていた。「お母さん」と子どもは不意に言った。「どうして子どもはできるの」 ―― 「坊や」と母親はためらうこともなく答えた。「女の人はおしっこをするようにして子どもを生むんですよ。それはとても痛くてね、そのために死ぬこともあるんですよ。」 ばか者は笑うがいい。頭のない連中は眉をひそめるがいい。だが、賢い人は、これ以上に分別のある、目的にかなった解答がほかにみあたるかどうか考えてみるがいい。

 P21
 その年齢にふさわしく育てられている子どもは孤独である。習慣から生じる愛着のほかには愛着をもたない。かれは自分の時計をだいじにするように妹をかわいがる。犬をかわいがっているのと同じように友だちを愛している。自分の性をぜんぜん意識していないし、人間仲間の一人であることも意識していない。男も女も同じようにかれにとっては無縁の存在なのだ。かれらがしていることも言っていることも、なにひとつ自分に結びつけて考えない。それを見もしなければ聞きもしない、あるいはそれにぜんぜん注意をはらわない。かれらの話もかれらの実例も同じようにかれの興味をひかない。そういうことはすべてかれにとっては関係のないことなのだ。それはこの方法によってあたえられる人工的な誤りではない。自然にもとづく無知なのだ。時がくれば同じ自然は生徒に説明してやることになる。そのときはじめて自然は、あたえられる教えをなんの危険もなしに生徒が利用できるようにしてやる。これが原則だ。細部の規則はわたしの主題ではない。それに、ほかのことでわたしが提案している方法は、この問題でもみならうべき範例になる。
 あらわれはじめた情念に秩序と規則をあたえようとするなら、それが発達していく期間をひきのばして、あらわれてくるにつれて整理されていく余裕をあたえるがいい。こうすれば、それに秩序をあたえるのは人間ではなく、自然そのものであることになる。

 P23
 先ばしった知識をあたえられ、それを実行に移す能力をひたすら待ちこがれている、世なれて洗練された子ども、文化的な子どもは、その能力が生じてくる時期について思いちがいをするようなことはけっしてない。そういう子どもは、待っているどころではない、その時期をはやめ、はやくから血を沸き立たせて、欲望を感じるずっとまえから、欲望の対象がどういうものであるべきかを知っている。自然がかれを刺激しているのではなく、かれが自然をせきたてているのだ。自然はかれを大人にするとき、かれに教えることはもうなにももたないのだ。かれはじっさいに大人になるずっとまえから、気持ちのうえでは大人になっていたのだ。

 P24
 注意ぶかく育てられた青年が感じることのできる最初の感情は、愛ではなく、友情である。あらわれはじめた想像力の最初の行為は青年に自分と同じような人間の存在を教えることであって、人類にたいする感情が異性にたいする感情よりもはやくめざめる。そこで、無知の状態をひきのばすことにはもう一つの利益があることになる。それはあらわれはじめた感受性を利用して年若い青年の心に人間愛の最初の種子をうえつけることだ。これは、一生のあいだでこの時期こそそういう心づかいがほんとうに実を結ぶことのできる唯一の時期であるだけに、なおさら貴重な利益である。
 はやくから堕落して、女と放蕩に身をもちくずしている青年は不人情で残酷である事実をわたしはたえず見てきた。激しい気質がかれらを忍耐心に乏しく、復讐心の強い、凶暴な人間にする。かれらの想像力は、ただ一つのことにとらえられていて、ほかのことはいっさい考えようとしない。かれらは思いやりもあわれみも知らない。とるにたりない快楽のためにさえ、かれらは父親も母親も、宇宙ぜんたいも犠牲にしてしまうにちがいない。それとははんたいに、めぐまれた単純さのうちに育てられた青年は、自然の基本的な衝動によってやさしい愛情にみちた情念をもつようになる。

 P26
 人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。わたしたちのひとりひとりがほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものからわたしたちのはかない幸福が生まれてくる。ほんとうに幸福な存在は孤独な存在だ。神だけが絶対的な幸福を楽しんでいる。といっても、わたしたちのだれがそういう幸福についての観念をもっていよう。何者か不完全な存在者が自分だけで満足できるとしたら、わたしたちに考えられるどんなことをかれは楽しむことになるのか。かれはひとりで、みじめな者になるにちがいない。なんにも必要としない者がなにものかを愛することができるとは考えられない。ところで、なにものも愛していない者が幸福でありうるとは考えられないのだ。
 そこで、わたしたちがわたしたちと同じような人間にたいして愛着をもつのはかれらの喜びを考えることではなくむしろ苦しみを考えることによってなのだ。そこにわたしたちはいっそうよく、わたしたちの本性と一致するものを、そしてわたしたちにたいするかれらの愛着の保証となるものをみるからだ。わたしたちに共通の必要は利害によってわたしたちを結びつけるが、わたしたちに共通のみじめさは愛情によってわたしたちを結びつける。幸福な人の様子は、ほかの者に愛情よりも羨望の念を感じさせる。そういう人が自分ひとりの幸福を手に入れたのは、もってもいない権利を横どりしたからだとわたしたちは非難したくなる。そして自尊心は、その人がわたしたちをぜんぜん必要としていないことをわたしたちに感じさせ、なおさら苦しむことになる。ところが、目のまえで苦しんでいる不幸な人をかわいそうだと思わない者がいるだろうか。その人を不幸な境遇から救い出すにはただその気になればいいというばあいには、そうしたいと考えない者がいるだろうか。想像はわたしたちを幸福な人の地位において考えさせるよりもむしろみじめな人の地位において考えさせる。この二つの状態の一つはもう一つの状態よりもわたしたちにとっていっそう身近に感じられることがわかる。同情は快い。悩んでいる人の地位に自分をおいて、しかもその人のように自分は苦しんでいないという喜びを感じさせるからだ。羨望の念はにがい。幸福な人を見ることは、うらやましく思っている者をその人の地位におくことにはならないで、自分はそういう地位にはおかれていないという恨めしい気持ちを起こさせるからだ。一方はかれが悩んでいる苦しみをわたしたちにまぬがれさせるように、他方はかれが楽しんでいる喜びをわたしたちから奪っているように感じられる。
 だから、青年の心にあらわれはじめた感受性の最初の動きに刺激をあたえ、それをはぐくんでいこうとするなら、かれの性格を慈悲と親切のほうへむけさせようとするなら、人々の幸福のいつわりの姿を見せて、傲慢な心、虚栄心、羨望の念を芽生えさせるようなことをしてはならない。最初は、宮廷の花やかさ、宮殿の豪奢な生活、さまざまな催しごとの魅力をかれの目のまえにひろげて見せてはいけない。いろいろな会合や輝かしい集まりに連れていってはいけない。上流社交界の内情を考えることができるようにしてやったあとでなければ、その表面の姿を見せてはいけない。人間を知らないうちに世間を見せてやることは、かれを教育することにはならないで、堕落させることになる。それはかれを教えることにはならないで、だますことになる。





 人間は最終的には霊性が目覚めないといけない。あまり性に手を染める時期が早いと、それに夢中になりアムールや友愛の目覚めが遅れたり、目覚めなかったり、モラルハザードに陥ったりする傾向は、たしかにあると思う。