J.J.Rousseau "Emile"

ルソー 『エミール』(中)
今野一雄訳 岩波文庫




− 第四編 つづき−

 P28
 十六歳になれば、青年は悩むとはどういうことか知っている。自分で悩んだことがあるからだ。けれども、自分とは別の存在もまた悩んでいることはまだほとんど知らない。悩んでいるのを見てもそれを感じなければ知ることにはならないし、わたしがすでにくりかえし言ったように、子どもにはほかの者が感じていることは考えられないから、不幸といえば自分の不幸しかわからないのだ。しかし、感覚の範囲がひろがってきて、想像の火が点火されると、かれは自分と同じような人間のうちに自分を感じ、かれらの悲しみに心を動かされ、かれらの苦しみに悩みを感じるようになる。そこで、悩める人類のいたましい光景がこれまで味わったことのない感動をはじめてかれの心に呼び起こすことになる。
 あなたがたの生徒のばあい、そういう時期をみとめるのは容易でないとしても、それはだれの責任でもあるまい。あなたがたはかれらに、はやくから感情をもてあそぶことを教えている。はやくから感情の言語を学ばせている。だから、かれらはいつでも同じような調子で語り、あなたがたの教えをあなたがた自身にたいして逆用し、いつうそをつくことをやめて言っていることを感じるようになるのか、みわける手段をぜんぜんあなたがたにあたえないのだ。ところが、わたしのエミールを見るがいい。わたしがかれを導いてきた時期には、かれは感じたこともなければ、うそをついたこともない。かれは、愛するとはどういうことか知らないうちに、だれかに「わたしはあなたをほんとうに愛します」と言ったことはない。父親の部屋、母親の部屋、あるいは病気で寝ている教師の部屋にはいるときにはこういうふうにしなさい、などとかれはいいつけられたことはない。感じてもいない悲しみをよそおう技巧を教えられてはいない。だれが死んでも、そら涙を流したことはない。死ぬとはどういうことか知らないからだ。心情が無関心なら、態度も同じように無関心だ。ほかの子どももすべてそうであるように、自分のことのほかにはいっさい関心をもたないかれは、だれにも興味を感じない。ほかの子どもとちがう点は、興味を感じているようにみせかけようとはしないこと、ほかの子どものようにうそつきではないこと、それだけだ。
 エミールは感覚をもつ存在ということについてあまり考えてみたことがないから、悩むとか死ぬとかいうことについてはずっとおくれて知ることになる。嘆き悲しむ声がやがてかれの心を動かしはじめる。血が流れるのを見れば目をそむけるようになる。息絶えようとしている動物の痙攣は、これまで感じたことのないその心の動きがどうして起こってくるのかわからないうちから、なんともいえない苦悶を感じさせることになる。感じがにぶくて野蛮だったとしたら、かれはそういうことは感じまい。もっと多くの知識をもっていたとしたら、かれはその原因を知るにちがいない。かれはもう多くの観念をくらべてみているからなにも感じないわけにはいかないのだが、感じていることを理解できるほどにはまだ十分に多くの観念をくらべてみていないのだ。
 こうしてあわれみの心が生まれてくる。これは自然の秩序によれば最初に人の心を動かす相対的な感情である。感じやすく、あわれみぶかくなるためには、子どもは、自分が悩んだことを悩み、自分が感じた苦しみを感じ、自分もまた感じるかもしれないこととしてその観念をもっているほかの苦しみを感じている、自分と同じような存在があることを知らなければならない。じっさい、わたしたちをわたしたちの外へ移して、悩んでいる生き物に同化させるということがなければ、いわば、わたしたちの存在を捨ててそのものの存在になるということがなければ、どうしてわたしたちはあわれみに心を動かされよう。そのものが悩んでいると判断することによってのみわたしたちは悩む。わたしたちのことを考えてではなく、そのもののことを考えてわたしたちは悩むのだ。だから、想像がはたらかなければ、自分の外へ自分を移すことができなければ、だれも感じやすい人間にはなれない。
 あらわれはじめたこの感受性に刺激をあたえ、それをはぐくんでいくためには、それを導いていく、というよりその自然の傾向に従っていくためには、わたしたちはいったいなにをしなければならないのか。青年の心にみちあふれている力がはたらきかけることのできる対象、心をのびのびとさせ、ほかの存在のうえにひろげ、いたるところで自分の外に自分をみとめさせる対象をかれに示してやることではないか。心をしめつけ、内部に集中させ、人間の自我を緊張させるような対象を注意して遠ざけることではないか。つまり、ことばをかえていえば、親切な心、人間愛、同情心、慈悲ぶかい心など、おのずから人々を喜ばせることになる、やさしく人をひきつけるあらゆる情念を刺激し、羨望の念、憎悪心など、人にいやがられる残酷な情念、いわば感受性を無意味にするばかりでなく、否定的にして、感じている者の心を苦しめることになるあらゆる情念を呼び起こさないようにすることではないか。
 以上に述べた考察はすべて、正確、明快ですぐに理解できる二つ、いや三つの格率に要約できると思う。

   第一の格率

  人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

 この格率に例外がみいだされるとしても、それは現実的なことであるよりも、表面的なことであるばあいのほうが多い。だから人は、愛着を感じている金持ちや貴族の地位に自分をおいて考えることはない。心から愛着を感じているばあいにも、その楽な生活の一部分を同化するにすぎない。ときとして、人は不幸な境遇にあるかれらを愛することはある。しかし、輝かしい状態にあるかぎり、かれらのほんとうの友人になれる人は、表面的なことにだまされないで、どんなにかれらが富み栄えていようとも、それをうらやむようなことはなく、むしろあわれんでいる人だけだ。
 ある種の状態の幸福、たとえば田園の牧歌的生活の幸福には、人は心を動かされる。あの幸福で善良な人たちをながめる魅力は羨望の念によって毒されることはない。人はかれらにたいしては心から興味を感じる。それはなぜか。あの平和で純朴な人々の身分に身を落として、同じような幸福を楽しもうとは思えば、いつでも自由にそうすることができることがわかっているからだ。それは考えても愉快に感じられるだけの最低の生活だ。そういう生活は楽しもうと思えば楽しむことができるのだ。いつでも自分に残されている生活手段を見るのは、自分の財産をながめるのは、さしあたってそれをもちいようとは思っていないときでも、いつも楽しいことだ。
 そこで、青年に人間愛を感じさせるには、ほかの人たちの輝かしい身分を感嘆させるようなことはしないで、それをみじめな側面から示してやらなければならない。それを恐れさせなければならない。そうすれば、明瞭な結果として、かれは人が歩いた道とはちがう幸福への道を切りひらいていくはずだ。

   第二の格率

  人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

 「不幸を知っていればこそ不幸なかたをお助けしたいと思うのです」
 この詩句のように美しく、意味ふかく、心にふれる、真実なことばを私は知らない。
 なぜ王たちは臣下にたいして無慈悲なのか。けっしてふつうの人間になるつもりはないからだ。なぜ金持ちは貧乏人にたいしてあんなに苛酷なのか。貧乏人になる心配はないからだ。なぜ貴族は民衆をあんなに軽蔑するのか。けっして平民になることはないからだ。なぜトルコ人は一般にわたしたちよりも情けぶかく、快く人をもてなすのか。かれらはまったく恣意的な統治のもとにあるために、個人の地位や財産はいつも一時的なもの、変わりやすいものなので、卑しい身分や貧困を自分に無縁の状態とは考えないからだ。だれでもきょう助けてやっている者と同じような者にあしたにでもなるかもしれないのだ。こういう考えは東洋の物語にたえずくりかえし述べられているのだが、それは読者になんともいえない感動を呼び起こす。それはわたしたちのひからびた教訓のあらゆるこしらえごとにみいだされないものだ。

   第三の格率

  他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

 わたしたちが不幸な人をあわれむのは、その人があわれむべき状態にあると考えられるかぎりにおいてである。わたしたちの不幸の肉体的な感じは見かけ以上にかぎられている。それを連続的にわたしたちに感じさせるのは記憶力なのだ。それを未来にひきのばして、わたしたちをほんとうにあわれな人間にするのは想像力なのだ。共通の感受性はわたしたちを同じように動物にも同化させることになるとしても、動物の苦しみにたいしては人間の苦しみにたいしてよりもわたしたちが冷淡である原因の一つはそこにある、とわたしは考える。荷馬車ひきの馬が馬小屋にいるのを見てあわれみを感じるような人はほとんどいない。その馬は、まぐさを食いながら、さっき打たれたことや、これから骨を折らなければならないことを考えているとは思われないのだ。あの羊はまもなく殺されるだろうとわかっていても、それが草をはんでいるのを見て、やはり人はかわいそうだとは思わない。羊は自分の運命を見透してはいないと考えられるからだ。この考えをおしすすめると、人は人間の運命にたいしても冷淡になる。そして金持ちは、貧乏人を苦しめながらも、かれらは愚鈍だからなんにも感じはしないのだと考えて、みずからなぐさめている。一般的にいって、それぞれの人が自分と同じ人間の幸福をどのくらい重くみているかは、かれらがそれらの人間にたいしてはらっているようにみえる尊敬の程度によってわかるとわたしは考える。軽蔑している人間の幸福を軽く考えるのはあたりまえのことだ。だから、政治家があんなに軽蔑した調子で民衆について語るとしても、多くの哲学者が人間をごくたちの悪い者にしようとしているとしても、もう驚くにはあたるまい。
 人類を構成しているのは民衆だ。民衆でないものはごくわずかなものなのだから、そういうものを考慮にいれる必要はない。人間はどんな身分にあろうと同じ人間なのだ。そうだとしたら、いちばん人数の多い身分こそいちばん尊敬にあたいするのだ。考える人にとっては、社会的な差別はすべて消えうせる。かれはくずのような人間のうちにも輝かしい人のうちにも同じ情念、同じ感情をみとめる。もちいる言語のちがい、上っ面のよしあしをかれらのうちに区別するだけだ。もしなにか本質的なちがいがかれらを区別するとしたら、ごまかしの多いほうが不利になる。民衆はあるがままに自分を示し、愛想がよくない。ところが社交界の人たちはどうしても自分を隠さなければならない。あるがままの自分を示すとしたら、嫌悪をもよおさせるにちがいないのだ。
 金持ちの苦しみはその身分から生じるのではない、それを悪用する金持ち自身から生じるのだ。貧しい人にくらべてさえ不幸だとしても、金持ちをあわれむことはいらない。不幸はすべて自分がつくりだしたものだし、自分の意志ひとつで幸福になれるのだから。ところが、貧しい人の苦しみはその境遇から、かれのうえに重くのしかかっているきびしい運命から生じるのだ。疲労、消耗、空腹からくる肉体的な感じをなくしてくれるような習慣はない。すぐれた精神も知恵も、かれがおかれた状態から生じてくる苦しみをまぬがれさせるにはなんの役にもたたない。エピクテトスは、主人が自分の足を折ろうとしていることをあらかじめ知ったところで、どんな得をしたことになるのか。それがわかっていたところで、主人はやはりかれの足を折るのではないか。エピクテトスにはその苦しみにくわえて、先見の明による苦しみがある。わたしたちは民衆を愚鈍だと考えているが、まったくはんたいに、分別のある人たちだとしたところで、かれらは現にあるようなものとは別のどういうものになれよう。現にしていることとちがうどういうことができよう。この階級の人たちを研究してみるがいい。ことばつかいはちがっても、かれはあなたがたと同じくらいの機知とあなたがた以上の良識をもっていることがわかるだろう。だから、あなたがたが属している人類に尊敬をはらうがいい。人類は本質において民衆の集合から成り立っていること、国王や哲学者がみんなそこから除外されてもほとんどなんの変わりもないこと、事情はいっそう悪くなるわけでもないことを考えるがいい。一言でいえば、あなたがたの生徒に、あらゆる人間を愛すること、人間をいやしめる連中さえ愛することを教えるがいい。自分をどんな階級にもおくことなく、あらゆる階級に自分をみいださせるようにするがいい。かれをまえにおいて、感動をこめて、さらに、あわれみをこめて、人類について語るがいい。しかし、けっして軽蔑をこめて語ってはならない。人間よ、人間を辱しめてはいけない。
 こういう道を通って、そのほかにも同じような、すでにきりひらかれている道とはまったく反対の道を通って、年若い青年の心に分け入り、そこに自然の最初の動きを刺激し、かれと同じような人間のうえに心をひらかせ、ひろげさせるがいい。それにつけくわえて、そういう心の動きにはできるだけ個人的な利害の念をまじえないようにすることが必要だと言っておこう。とくに虚栄心、競争心、名誉心など、わたしたちをほかの人間にくらべさせるような感情を起こさせてはいけない。そういう比較は、わたしたち自身の評価においてにすぎないとしても、わたしたちと優劣を争う人々にたいするなんらかの反感をかならずともなうことになるからだ。そうなると、盲目になったり、いらだったりして、意地わるになるかばか者になるかせずにはすまない。こういうことはどちらもさけることにしよう。そういう危険な情念はいずれにしてもおそかれはやかれ生まれてくるだろう、と人はわたしに言う。わたしはそれを否定しない。あらゆるものにはその時機がある。ただわたしは、そういう情念が生まれてくるのを助けるようなことをすべきではない、と言おう。
 これがとらなければならない方法の精神だ。ここで例をあげたり、細かいことにたちいって述べたりしてもむだだろう。ほとんど無限にみられる性格の相違がここにみとめられてくることになるので、わたしがあげる例の一つ一つは、おそらく十万人のなかの一人にしかあてはまらないからだ。この時機においてこそまた、有能な教師は、心情を形づくる仕事をするにあたって、人の心の中を深くきわめる技術をこころえた観察者、哲学者としてのほんとうの役割をはたすことになる。青年がまだ自分をいつわるようなことを考えないあいだは、そういうことをまだ学んでいないあいだは、かれに見せる一つ一つのものからかれがどんな印象をうけとるかを、その様子、その目つき、動作によって知ることができる。かれの顔にはかれの心のあらゆる動きが読みとられるのだ。それによく注意していることによって、かれの心の動きを見ぬき、さらにそれを導いていくことができるようになる。
 ひろくみとめられるところでは、血の滴り、傷、泣き声、うめき声、つらい手術の道具など、苦悩の対象を感官にもたらすものはすべて、いっそうはやくから、いっそう一般的に、あらゆる人の心をとらえる。破壊の観念は、もっと複雑なので、同様には感じられない。死の姿はもっとあとになってから心にふれ、それほど強く心を動かすこともない。だれも自分のこととして死んだ経験をもつ者はいないからだ。瀕死の人の苦悶を感じるには死骸を見たことがなければならない。しかし、ひとたび死の姿がはっきりとわたしたちの精神にきざみつけられると、わたしたちにとってそれ以上に恐ろしい光景はなくなる。それは、死の姿がそのとき感官を通してあたえる完全な破壊という観念のためであり、また、人は、その瞬間があらゆる人間にとって避けがたいことを知って、まぬがれられないことが確実にわかっている状態にいっそう激しく心を揺さぶられる思いがするからでもある。
 こういうさまざまな印象には変化と段階があって、これは各人の個別的な性格と以前からの習慣に依存している。けれども、それは普遍的なもので、それを完全にまぬがれている人はいない。そのほかにもっとおそくなってから感じられるそれほど一般的でない印象があり、これは感じやすい心をもつ人にいっそうよく感じられる。それは精神的な苦痛、内面的な苦しみ、悩み、憂い、悲しみなどからうける印象である。泣き声を聞き、涙を見なければ、心を動かされないような人たちもいる。こういう人たちは、悩みにしめつけられた胸からもれる長いあいだのひそかなうめき声に嘆息させられたことはけっしてない。がっかりした様子、やつれて血の気のない顔、もう泣くこともできないうつろな目、そういう人を見て、こちらが泣いたというようなことはけっしてない。こういう人たちにとっては、心の苦しみなどはなんの意味もない。それがわかっていても、かれらの心はなにも感じない。こういう人たちには、やわらげることのできないきびしさ、頑固な心、残酷な心以外のものを期待してはいけない。かれらは廉潔な正しい人になれるかもしれないが、寛大であわれみぶかい人にはけっしてなれない。かれらは正しい人になれるかもしれないとわたしは言った。しかしそれは、人間はあわれみをもたなくても正しい人になれるとしたら、としての話だ。
 しかし、こういう規則によって早急に若い人たちを判断してはならない。当然そうでなければならない教育をうけて、まだ感じさせられたことのない精神的な苦痛についてなんの観念ももたない青年のばあいにはなおさらのことだ。もういちど言えば、こういう青年は自分が知っている苦しみのほかにはあわれむことができないのだ。そして、その表面的な無関心はただ無知のせいなので、人生には自分の知らない無数の苦しみがあることを知るようになれば、無関心はたちまち感動に変わってしまうのだ。わたしのエミールについて言えば、子ども時代にはかれは単純さと良識をもっていたが、青年時代になれば、やさしい心と豊かな感受性をもつことになるとわたしは確信している。正しい感情は正確な観念にもとづくことが多いからだ。