J.J.Rousseau "Emile"

ルソー 『エミール』(中)
今野一雄訳 岩波文庫




− 第四編 つづき−

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 わたしたちは表面的なことで幸福を判断していることがあまりにも多い。どこよりも幸福のみあたらないところにそれがあると考えている。幸福がありえないところにそれをもとめている。陽気な気分は幸福のごくあいまいなしるしにすぎない。陽気な人は他人をだまし、自分でも気をまぎらそうとしている不幸な人にすぎないことが多い。人の集まったところでは微笑をたたえ、快活で、朗らかな様子をしている人は、ほとんどみんな、自分の家では陰気な顔でどなりちらしていて、召使いたちは主人が世間でふりまいている愛嬌のために苦しむことになるのだ。ほんとうの満足感は、陽気でもなければ、ふざけちらしたりすることでもない。その快い感情をだいじにして、それを味わいながらよく考え、十分に楽しみ、それを発散させてしまうことを恐れている。ほんとうに幸福な人間というものは、あまりしゃべらないし、ほとんど笑わない。かれは幸福をいわば自分の心のまわりに集中させる。騒々しい楽しみごと、はねっかえるような喜びは、嫌悪と倦怠を覆いかくしている。一方、メランコリーは快楽の友だ。感動と涙がこのうえなく快い楽しみにともなう。そして、大きな喜びもまた、叫び声ではなく、むしろ涙をもたらすのだ。
 はじめは、いろいろと変化のある楽しみごとが幸福に役だつようにみえるとしても、一様な変化のない生活ははじめは退屈なようにみえるとしても、もっとよく見れば、はんたいに、いちばんなごやかな心の習慣は、欲望と嫌悪感にとらえられることが少ない、節度ある楽しみのうちにあることがわかる。落ち着きのない欲望は、好奇心を、変わりやすい気分を生みだす。騒々しい楽しみのむなしさは倦怠感を生みだす。もっと快い状態を知らなければ、人はけっしてその状態に退屈することはない。世界のあらゆる人間のなかで、未開人は、いちばん好奇心をもつことが少なく、いちばん退屈することの少ない人間だ。かれらはどんなことにも無関心だ。かれらは事物を楽しんでいるのではなく、自分を楽しんでいるのだ。かれらはなにもしないで人生を過ごしているが、けっして退屈しない。
 社交界の人は完全に仮面をかぶって生きている。ほとんどいつも自分自身であることはなく、いつも自分とは縁のないものになっていて、自分に帰ることを余儀なくされたときには、窮屈な感じがする。かれにとっては、じっさいにあるものにはなんの意味もなく、表面的なことがすべてなのだ。(初期のサロンは純粋だったと批評されるところだが、そういう上品な会合にはやがて粗野なる上流気取りが跋扈するようになる。啓蒙されていない時代にあっては人々はたやすく呑み込まれてしまう。そんな暗黒の時代のルソー視点。知識・見識の洗練された今となっては「哲学者は」といえば正当な反発が多く生じるだろう。それは時代遅れな定義である。しかし自然精神について議論する時代があったからこそ、それが基盤となって今があることを忘れてはならない。)
 さっき話したような(省略してある)青年の顔を見ると、落ち着いた人に不快の念をあたえ、やりきれなくなるような、なんとなく生意気なところ、猫をかぶったようなところ、気どったところを感じずにはいられない。ところが、わたしの生徒の顔には、満足感、ほんとうに朗らかな心を示し、尊敬、信頼感を呼び起こす表情、かれに近づく人々に友情を感じるためにひたすら相手の友情の発露を待っているようにみえる、人をひきつける素直な表情を見ずにはいられない。容貌というものは、自然によってすでにしるされている線をたんに拡大したものにすぎないと人は考えている。わたしは、そういう拡大ということのほかに、人間の顔の線は、ある種の心の動きのひんぱんな、習慣的な印象によって知らずしらずのうちにできあがってきて、一定の特徴をもつようになると考えたい。そういう心の動きは顔に示される。これ以上にたしかなことはない。そして、それが習慣になると、そこに永続的な印象を残すことになる。こういうわけで、容貌は性格を示すものとわたしは考える。そして、ときには容貌で性格を判断することができるのであって、それには、わたしたちがもたない知識を予想する神秘的な説明をもとめるようなことをする必要はないとわたしは考えている。原注

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 子ども時代にすることはたいしたことではない。そこに忍びこんでくる悪には対策がないわけではない。そして、そこに生まれる善はおそくなってからでも生まれてくるものだ。しかし、人間がほんとうに生きはじめる最初の時期についてはそうはいかない。この時期は、そのあいだになすべきことをするのに十分なくらい長くつづくことはけっしてないし、しかも、これは重要な時期だから、たえまない注意を必要とする。だからこそ、わたしはこの時期を長くひきのばす技術について強調するのだ。すぐれた栽培法のもっとも有益な教えの一つは、なにごともできるだけおくらせるということだ。ゆっくりと確実に前進させるがいい。青年が大人になるためになすべきことがなにも残っていないことになるまで、大人にならせないようにするのだ。肉体が成長しつつあるあいだに、血液に芳香をあたえ、筋肉に力をあたえることになっている精気がつくられ、精製されていく。あなたがたがそれにちがった道をとらせるなら、二つのものはいずれも無力な状態にとどまり、自然の仕事は完成されないことになる。精神のはたらきもまたやがてそういう変質を感じさせることになる。そして魂は、肉体と同じように弱々しく、無気力で衰弱した機能しかはたさないことになる。太い頑丈な手足は勇気も才能もつくりだすことにはならないし、また、魂と肉体をつなぐ器官がうまくできあがっていなければ、魂の力は肉体の力にともなわないということもわかる。しかし、その器官がどんなにうまくできあがっていたとしても、そのもとになるものが無気力な乏しい血液、体のあらゆる機構に力とはずみをあたえる実体を欠いた血液にすぎないなら、その器官はやはり弱いはたらきしかしないことになる。一般に、若いころ、早期の堕落からまもられていた人たちには、ふしだらな生活をすることができるようになるとすぐにそういう生活をはじめた人たちにおけるよりも、豊かな魂の力がみとめられる。そして、これは疑いもなく、よい風習をもつ国民が、ふつう、そうでない国民よりも、良識においても、勇気においても、まさっていることの理由の一つだ。後者はただ、かれらが才気とか明敏とか繊細とか呼んでいるなにかよくわからないつまらないおしゃべりの才能で知られている。けれども、りっぱな行為、美徳、ほんとうに有益な仕事によって人間をすぐれたものにし、かれに尊敬をはらわせることになる、知識と理性にもとづく偉大な、高貴な営みは、ほとんど前者においてのみみいだされる。

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 高利で恩を売るようなことがそれほど知られていなければ、恩知らずな行為ももっと少なくなるにちがいない。人は自分によいことをしてくれる者を愛する。これはまったく自然な感情だ。忘恩は人間の心には存在しない。しかし、そこには利害の念がある。だから、利害を考えて恩恵をほどこす者よりも、恩をうけてそれを忘れる者のほうが少ない。

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 人間の心にとっては、はっきりとわかっている友情の声以上に重みのあるものはなにもない。友情がわたしたちに語ることばはすべてわたしたちの利益のためであることがわかっているからだ。友人もまちがったことを言うばあいはある、しかし、友人はけっしてわたしたちにまちがったことをさせようとはしない、と信じていい。ときには友人の忠告を聞き入れないことはあっても、それを無視するようなことをけっしてしてはならない。
 わたしたちはやっと道徳的な秩序のなかへはいっていく。わたしたちは人間の第二の段階を経過したのだ。ここでそういうことを語るべきだとするなら、心の最初の動きから良心の最初の声が聞こえてくることの、愛と憎しみの感情から善悪の最初の観念が生まれてくることの証明をわたしはこころみたい。「正義」と「善」はたんに抽象的なことば、悟性によってつくられるたんなる論理的なものではなく、理性によって照らされた魂がほんとうに感じるものであること、それはわたしたちの原始的な感情の正しい進歩の一段階にほかならないこと、良心とかかわりなしに、理性だけではどんな自然の掟も確立されないこと、そして、自然の権利も、人間の心の自然の要求にもとづくのでなければ、すべて幻影にすぎないこと、そういうことをわたしは証明したい。けれども、ここでは形而上学や倫理学の概論を書くべきではないし、どんな種類の講義もすべきではないと考える。わたしたちの形成過程に関連させて、わたしたちの感情と知識の秩序と進歩を示せばそれでいい。わたしがここで指摘するにとどめることは、たぶんほかの人が証明してくれるだろう。
 わたしのエミールは、いままでは自分のことしか考えていなかったが、かれと同じ人間に注目するようになると、すぐに自分をかれらにくらべてみることになる。そして、この比較がかれのうちに呼び起こす最初の感情は、第一位を占めたいということだ。これは自分にたいする愛が自尊心に変わる地点、そしてそれに関係するあらゆる情念があらわれてくる地点だ。けれども、そういう情念のなかでかれの性格において支配的になるのが人間的なやさしい情念であるが、それとも、残酷でよくない情念であるか、好意と同情にみちた情念であるか、それとも、人をうらやみ、人のものをほしがるような情念であるか、それを決定するには、人々のなかで自分はどういう地位にあるとかれは感じるか、また、かれが獲得したいと思っている地位に到達するためにどんな種類の障害を克服しなければならないと考えることになるか、それを知る必要がある。
 その地位の獲得をめざすかれを導いていくために、人間に共通の偶有性によって人々の姿を示してやったのちに、こんどは、たがいにちがう点によって人々の姿を示してやらなければならない。ここで、自然的な、また社会的な不平等の程度が示され、社会秩序ぜんたいの一覧性が示されることになる。
 人間を通して社会を、社会を通して人間を研究しなければならない。政治学と倫理学を別々にとりあつかおうとする人々は、そのどちらにおいてもなにひとつ理解しないことになるのだ。まず原始的な関係に注目して、どうして人間はその影響をうけなければならないか、そして、そこからどういう情念が生まれてくるかをみる。逆に、情念が発達することによってその関係が複雑になり、緊密になることがわかる。人間を自由孤独にするのは腕力ではなく、むしろ節度をわきまえた心である。少数のものにしか欲望を感じない人は少数の人にしか執着をもたない。ところが、わたしたちの無益な欲望を肉体的な必要とたえず混同しながら、肉体的な必要を人間社会の基礎としている人々はいつも結果を原因と考え、かれらのあらゆる推論においてまちがってばかりいる。