J.J.Rousseau "Emile"

ルソー 『エミール』(中)
今野一雄訳 岩波文庫




− 第四編 つづき−

 P58
 自然の状態には現実的な事実にもとづく破棄することのできない平等がある。自然の状態にあっては人間同志のたんなるちがいが一方を他方に隷属させるほど大きいことはありえないのだ。社会状態には架空のむなしい権利の平等がある。この平等を維持するための手段そのものがそれをぶちこわしているのだ。そして、弱者を押さえつけるために強者にあたえられている国家権力は、自然が両者のあいだにおいた一種の均衡を破っているのだ。この最初の矛盾から、社会秩序のうちにみとめられる表面的なことと現実的なこととのあいだのいっさいの矛盾が生じてくる。いつでも大衆は少数派のために犠牲にされ、公共の利益は個人の利益のために犠牲にされるだろう。いつでも正義とか従属とかもっともらしいことばが暴力の手段、不正の武器としてもちいられるだろう。だから、ほかの階級にとって有益であるとみずから主張している選ばれたる階級は、じつはほかの階級の犠牲においてその階級自体に有益であるにすぎない。正義と理性の名においてそういう階級にはらわなければならないとされている尊敬をそこから考えてみなければならない。あとは、そういう階級が手に入れている地位がその地位を占めている人々の幸福にいっそう役だつものであるかどうかをみて、わたしたちの一人一人が自分の状態についてどう考えなければならないかを知ることだ。こういうことがいまやわたしたちの重要な研究題目になる。しかし、十分に念を入れて研究するためには、人間の心を知ることからはじめなければならない。
 人間を仮面をかぶったままで青年に示してやることが問題なら、人間を見せてやる必要はない。かれらはいつも必要以上に見ていることになる。しかし、仮面は人間ではないし、上っ面に心を迷わされてもいけないのだから、人間を描いてみせるなら、あるがままの人間を描いてみせるがいい。それは、青年を人間嫌いにさせるためではなく、人々をあわれみ、かれらと同じような者にはなりたくないと考えさせるためだ。これは、わたしの考えでは、人間が人類にたいしてもつことのできるいちばん筋の通った考えかただ。
 そのためには、ここでは、いままでわたしたちがたどってきた道とは反対の道をとって、自分の経験によってではなく、むしろ他人の経験によって青年を教育する必要がある。人々がかれをあざむくならば、かれは人々を憎むだろう。しかし、自分は人々からはなれたところにいて、かれらがたがいにだましあっているのを見るとしたら、それをあわれと感じるだろう。ピタゴラスはこんなことを言っていた。世の中の光景はオリンピック競技の光景に似ている。ある者は、そこに店を出して、もうけることだけを考えている。他の者は、体をはって名誉をもとめている。また、ある者は競技を見るだけで満足しているが、この最初の人たちはいちばんつまらないことをしている人たちではない、と。
 青年がいっしょに暮らしている者にたいして好感をもつことができるようにその仲間を選んでやることをわたしは望みたい。また、世の中というものを十分によく知ることを学ばせ、そこで行われているあらゆることに嫌悪を感じさせたい。人間は生まれつき善良であることを知らせ、それを感じさせ、自分自身によって隣人を判断させたい。けれども、どんなふうに社会が人間を堕落させ、悪くするかを見させ、人々の偏見のうちにかれらのあらゆる不徳の源をみいださせ、個人の一人一人には尊敬をはらわせるが、群集を軽蔑させ、人間はみんなほぼ同じような仮面をつけていること、しかしまた、なかには顔を覆っている仮面よりもずっと美しい顔があることを知らせたい。
 この方法には、正直のところ、不都合な点もあって、実行するのは容易ではない。かれがあんまりはやくから観察者になると、他人の行動をあんまりこまかく見ているようにかれを仕込むと、あなたがたはかれを、人の悪口を言ったり、あてこすりを言ったりする人間にすることになる、早急に断定的な判断をくだす人間にすることになる。かれはなにごとにおいてもいまわしい解釈をもとめ、なにかよいことでさえいい目で見ないことにいとうべき喜びを感じることになる。とにかくかれは不徳をながめることになれ、恐怖を感ぜずに悪人を見ることになれてしまう。人々があわれとも思わずにかわいそうな人たちを見るのになれてしまうのと同じだ。やがては、一般的な不正はかれに教訓をあたえることなく、むしろ、弁解の口実をあたえることになる。人間がこんなふうなら、自分もそれとちがったものになろうとすべきではない、とかれはつぶやくことになる。
 もしもあなたが根本からかれに教えようとして、人間の心の本性とともに、わたしたちの傾向を悪へむかわせる外部的な原因の適用を知らせようとするなら、そんなふうに感覚的なものからいっぺんに知的なものへかれを移行させることによって、あなたがたはまだかれが理解することのできない形而上学をもちいているのだ。これまで注意ぶかく避けてきた不都合なことに、教訓めいた教訓をあたえ、生徒自身の経験と理性の歩みのかわりに先生の経験と権威をかれの心におくという不都合なことに、ふたたびあなたがたは落ちこんでいるのだ。
 こうした二つの障害を同時にとりのぞくために、そして、かれの心をそこなうようなことはしないで、人間の心を理解させるために、わたしは遠いところにいる人間を見せてやることにしたい。別の時代、あるいはほかの場所にいる人間を見せてやることにしたい。そして、かれは舞台を見ることはできても、そこに登場することはけっしてできないようにしてやる。ここで歴史を教える時期がきたわけだ。歴史を通してかれは人の心を読み、哲学の授業などうけなくてもすむことになる。歴史を通してかれは人の心を見るのだ。たんなる観客として、なんの利害も情念も感じることなく、仲間としてでも検事としてでもなく、裁判官として見るのだ。
 人々を知るためにはかれらの行動を見なければならない。社交界では人々の話は聞ける。かれらは弁舌を示して、行動を隠す。ところが、歴史のなかでは行動が明らかにされ、人々は事実にもとづいて判断される。かれらのことばそのものもかれらを評価する助けになる。かれらが言っていることと、していることとをくらべて、かれらはじっさいにどういう者であるかということと、またどういう者に見せかけようとしているかということが同時にわかるからだ。自分を隠そうとすればするほど、ますますよくかれらを知ることができるのだ。
 困ったことにこの研究にはいろいろな危険、不都合がある。自分と同じ人間を公平に判断できるような地点に身をおくことはむずかしい。歴史の大きな欠点の一つは、人間をよい面からよりも、はるかに多く悪い面から描いていることだ。歴史は革命とか大騒動とかいうことがなければ興味がないので、温和な政治が行なわれてなにごともない状態のうちに国民の人口がふえ、国が栄えているあいだは歴史はなにも語らない。その国民が自分の国だけでは満足できなくなって、隣りの国の事件にくちばしをいれるか、それとも、自分の国の事件に隣りの国からくちばしをいれられるかしたときに、はじめて歴史は語りはじめる。歴史は、ある国がすでに衰えはじめているときに、それに輝かしい地位をあたえる。わたしたちの歴史はすべて終わりにすべきところではじまっているのだ。たがいに滅ぼしあっている国民についてはわたしたちはひじょうに正確な歴史をもっている。わたしたちに欠けているのは富み栄えていく国民の歴史だ。そういう国民は、十分幸福で、懸命なので、それについては歴史はなにも語ることがないのだ。そして、じっさい、現代においても、もっともうまくいっている政府はもっとも話題にのぼることの少ない政府であることをわたしたちは知っている。わたしたちはだから悪いことしか知らないのだ。よいことが一つの時期を画したというようなことはほとんどない。有名になるのは悪人ばかりだ。善良な人間は、忘れられているか、笑いものにされている。だから、歴史は、哲学と同じように、たえず人類を中傷していることになる。