J.J.Rousseau "Emile"

ルソー 『エミール』(中)
今野一雄訳 岩波文庫




− 第四編 つづき−

 P64
 青年にとっていちばん悪い歴史家は判断をくだしている歴史家だ。ただ事実を!それを生徒自身に判断させるのだ。そうしてこそ、かれは人々を知ることを学ぶのだ。著者の判断がたえず生徒を導いていたのでは、生徒は他人の目で見ているにすぎない。だから、その目がみあたらないときには、なにも見えなくなってしまう。
 近代の歴史は除外することにする。それにはもう特徴がなくなっているし、近代の人間はみんな似たりよったりであるばかりでなく、近代の歴史家は光彩を放つことに専念して、色彩あざやかな肖像を描くことばかり考え、しかもそれらの肖像はしばしばなにものも表現してはいないからだ。一般的にいって、古代作家は肖像を描くことが少なく、その判断に才気を示すよりも豊かな良識を示している。それにしても、古代作家についても慎重な選択をしなければならない。そしてはじめは、もっとも正確な作家ではなく、もっとも単純な作家をとらなければならない。わたしは青年の手にポリュビオスもサルティウスも渡したくない。タキトゥスは老人の読む書物だ。若い人はそれを理解するまでになっていない。人間の心の奥底をさぐるまえに、その基本的な様相を人間の行動のうちに見ることを学ばなければならない。一般的な格言を読むまえに、個々の事実がよく読めるようにならなければいけない。格言で語られる哲学は経験をつんだ者だけにふさわしい。若い人はなにごとも一般化すべきではない。かれらに教えることはすべて特殊な規則として教えられなければならない。
 トゥキュディデスは、わたしの考えでは、歴史家の真の模範である。かれは判断せずに事実をつたえている。しかし、それについてわたしたちに判断させるために必要な事情を一つも言い落としていない。かれが語るすべてのことを読者の目のまえにおいてくれる。事件と読者とのあいだにわりこんでくるようなことはしないで、自分は姿を消している。人は読んでいるような気がしないで、見ているような気がしてくる。ただ、困ったことに、かれは戦争の話ばかりしていて、その物語にはこのうえなく非教育的なこと、つまり戦争ののかにはほとんどなにもみあたらない。

 P67
 人間の心の研究をはじめるにあたって、わたしはむしろ個人の伝記を読むことにしたい。そこでは、人間はいくら姿をかくそうとしてもむだで、歴史家はどこへでもついていくのだ。歴史家はその人間に息つくひまもあたえない。見ている者の鋭い目をさけるための片隅もあたえない。そして、その人間がうまく身をかくせたと思っているときにこそ、歴史家はいっそうよくかれを知らせることになるのだ。モンテーニュは言っている。「伝記を書く人たちは、事件よりも意図に多くの興味をもっているし、外部で起こることよりも内部から出てくることにいっそう興味をもっている。だからこそ、あらゆる種類のことで、プルタルコスはわたしにぴったりした人なのだ。」

 P68
 プルタルコスは、わたしたちがもはやあえてたちいろうとはしない、そういおう細かい点ですぐれている。かれは偉大な人々を些細な事実によって描きだすことに追随を許さない魅力をもっている。そして、逸話を選びだすことにきわめてたくみで、しばしば一言で、ちょっとした微笑で、身ぶりで、十分によく主人公の特徴を示している(手塚治虫も)。冗談ひとつでハンニバルはおびえた軍隊を安心させ、イタリアをかれにひきわたすことになった戦いにむかって笑いながら進軍させる。棒にまたがったアゲシラオスはペルシャ大王を打ち破った人を愛すべき人間にしている。貧しい村を通りながら友人たちと語るカエサルは、ポンペイウスと肩をならべる者になりたいと思っているだけだ、と言っていた滑稽な人間をうっかり暴露する。アレクサンドロスは薬を飲みほして、ただのひと言もいわない。それはかれの生涯のもっとも美しい瞬間だ。アリステイデスは陶片のうえに自分の名をしるして、かれのあだ名が正当なことを証明した。フィロポイメンはマントを脱ぎすてて、泊めてもらった家の調理場で薪を切る。こういうことこそ人間を描くほんとうの技術だ。人の面影は重大な事実には見られないし、性格は偉大な行動にはあらわれない。天性が明らかにされるのはつまらないことによってなのだ。国家的なことはあまりにもありふれているか、わざとらしく感じられるのだが、近代的な格調がわたしたちの著書にくわしく述べることを許しているのはこういうことに限られているといっていい。