Hermann Hesse "Demian"
ヘルマンヘッセ 『デミアン』
高橋健二訳 新潮文庫
− ヘッセとピストーリウス −
[アプラクサス]
そんなふうで私はいまも席についていたが、ヘロドトスと学校とから遠く離れていた。だが、そのとき、ふいに先生の声がいなずまのように私の意識の中にとびこんできたので、私はぎくっとしてさめた。私は先生の声を聞いた。先生は私のすぐそばに立っていた。私はもう先生に名まえを呼ばれたと思った。しかし先生は私の顔を見なかった。私はほっと息をついた。
そのとき、私はふたたび先生の声を聞いた。大きな声で先生は「アプラクサス」と言った。
その説明の初めは聞き落としてしまったが、ドクトル・フォルレンは話しつづけた。「われわれは古代のあの宗派や神秘的な団体の考えを、合理主義の観点の立場から見て素朴に見えるように、それほど素朴に考えてはならない。古代は、われわれの意味での科学というものはぜんぜん知らなかった。そのかわり、非常に高く発達した哲学的神秘的真理が研究されていた。その一部から魔術と遊戯とが生じ、しばしば詐欺や犯罪になりさえした。しかし魔術でも高貴な素性と深い思想を持っていた。さっき例にひいたアプラクサスの教えもそうであった。人々はこの名をギリシャの呪文と結びつけて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名だと思っているものが多い。しかしアプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる」
小男の学者は鋭く熱心に話し続けたが、だれもたいして注意していなかった。あの名まえはもう出て来なかったので、私の注意もまもなく自分自身の心の中にもどってしまった。
「神的なものと悪魔的なものを結合する」。そのことばがあとまで私の耳に残った。そこに話がむすびついていた。それはデミアンとの交わりの最後のころの対話以来親しんできたことだった。そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。――さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。
[拝火教のシーン]
自然の非合理的な入り組んだ不思議な形への没頭は、私たちのうちに、そういう形象を生じせしめた意思と私たちの心との一致の感情を起こさせる。自分と自然とのあいだの限界が震え溶けるのを見る。これほど単純容易に、どんなに自分たちが創造者であるか、どんなに自分たちの魂がたえず世界の不断の創造に関与しているか、という発見をすることはない。むしろ、私達の内で働いているものと自然の内で働いているものは同一不可分な神性である。
山や川、木の葉、根や花など自然界の一切の形成物は、私たちの内部に原型を持っており、永遠を本質とするところの魂から発している。
「ほんとうに自分の運命以外のものは何も欲しない人には、もはや同類というものはなく、まったく孤立していて、周囲に冷たい宇宙を持つだけだ。ゲッセマネの園におけるイエスはそうだったのだよ。喜んで十字架にかけられた殉教者はいた。しかし、彼らも英雄ではなく、解放されていなかった。彼らも愛しなじみ親しんでいるものを欲し、手本や理想を持っていた。」 ピストーリウス
「拝火教は最も愚劣な創案ではなかった」と、彼は一度なにげなくつぶやいた。それ以外ふたりともなんにも言わなかった。私は目をすえて火を見つめ、夢と静寂の中にひたり、煙と灰の中にさまざまの姿かたちを見た。一度私はぎくっとした。友だちが樹脂の小さい塊を火の中に投げたのだった。小さい細い炎がぱっと燃え上がった。私はその中に、黄色いハイタカの頭をした鳥を見た。消え行く暖炉の火の中で金色に燃える糸が網になり、文字や形が現われ、さまざまの顔や動物や植物や虫やヘビの記憶を呼びおこした。私がわれにかえって、相方の方を見ると、彼はあごを両のこぶしにのせて、没我的に熱狂的に灰の中を見つめていた。
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