Hermann Hesse "Demian"

ヘルマンヘッセ 『デミアン
高橋健二訳 新潮文庫





− エヴァ夫人宅 −


 P.189
 「きみはもうぼくの母のところに行ったのか」と、彼はたずねた。
 「うん、デミアン、なんてりっぱなおかあさんだろう!エヴァ夫人って名はまったくうってつけだ。万物の母のようだね」
 彼は一瞬瞑想的に私の顔を見た。
 「もうその名を知っているのかい?きみは自慢してもいいよ。最初から母がその名を言ったのはきみが初めてだ」
 その日から私はその家に出入りした。息子であり兄弟であるように、だが、恋人でもあるように。――門をうしろにしめると、いや、遠くから庭の高い木が見えてくると、もう私は豊かに幸福だった。外には「現実」があった。外には街路と家があり、人がおり、いろいろな施設、図書館、講堂があった――それに引きかえ、ここには愛と魂があり、ここにはおとぎ話と夢とが生きていた。しかし世間から絶縁してはいなかった。私たちは考えや対話の中でしばしば世界のただ中にはいって生きた。ただ別な畑に生きているのだった。私たちは多数の人々から境界によってではなく、ただ別種の視覚によって分けられていた。私たちの課題は、世間の中に一つの島、おそらくは一つの模範を提示すること、いずれにしても、別な生き方の可能性を告げ知らすことだった。長いあいだ孤独だった私は、完全な孤独を味わった人々のあいだにだけ可能な仲間を知った。私はもう幸福な人々の食卓や陽気な人々の祝宴に帰ることを願わなかった。もはや、ほかの人々の仲間を見ても、しっとやホームシックを起こさなかった。そしてしだいに私は、しるしを持っている人々の秘密に通じるようになった。
 しるしを持っている私たちが世間から奇妙だ、狂っている、危険だ、と思われたのも、もっともかもしれない。私たちは目ざめたもの、あるいは目ざめつつあるものだった。ほかの人々の努力や幸福探求が、その意見や理想や義務や生活や幸福を衆愚のそれにますます密接に結びつけることを目ざしていたのに反し、私たちの努力はいっそう完全な覚醒を目ざしていた。彼らのあいだにも努力があり、力と偉大さはあった。しかし、私たちの解釈に従えば、われわれ、しるしのあるものが、新しいもの、孤立したもの、来たるべきものへの自然の意思を表わしていたのに反し、ほかのものたちは固執の意思の中に生きていた。彼らにとって人類は――彼らも私たちと同様に人類を愛していた――あるできあがったもので、維持され保護されねばならないものだった。私たちにとっては人類は一つの遠い未来であり、私たちは皆それを目ざして途上にあるのであって、その姿はだれにも知られず、そのおきてはどこにも書いてなかった。

 P.191
 ここにも特定の希望と救いの教義との信者と告白者とがあった。ヨーロッパを改宗させようとする仏教徒、トルストイ帰依者、その他の宗旨があった。狭いサークル内にいる私たちは耳を傾けたが、これらの教えのどれをも象徴としてしか受け取らなかった。私たち、しるしづけられたものには、未来の形成を思いわずらう責任はなかった。私たちにとっては、どの宗旨も救いの教義も、あらかじめ死んでおり無用であるように思われた。私たちがただ一つの義務として運命として感じていることは、私たちのめいめいがまったく自分自身になり、自分の中に働いている自然の芽ばえを完全に正しく遇し、その心にかなうように生き、不確実な未来がもたらすいっさいのものに対して、準備をしておくようにすることだった。
 現在のものの崩壊と新生とが近づいており、すでに感じられるということは、口に出すにせよ出さぬにせよ、私たちみんなの気持ちの中では明らかだった。デミアンはよく私に言った。「なにが来るかは予期できない。ヨーロッパの魂は、はてしなく長いあいだ縛られていた動物だ。自由になったら、その最初の動きは非常に愛すべきものではないだろう。しかし、長い長いあいだたえずごまかし、まひさせてきた魂のほんとの苦しみが現れさえすれば、道やまわり道は重大ではない。そうなれば、われわれの日が来るだろうし、われわれを必要とするようになるだろう。指導者として、あるいは立法者としてではなく――新しいおきてをわれわれはもはや体験しはしない――自発的なものとして、共に進み運命の招くところに立つ覚語をしているものとして、われわれを必要とするようになるだろう。みたまえ、すべての人間は自分の理想が脅かされると、信じられないほどのことをする用意がある。しかし、新しい理想、新しいおそらくは危険な不気味な成長の刺激がおとなう場合には、だれも居合わさない。そういう場合に居合わせて共に進む少数のものに、ぼくたちはなろう。そのためにぼくたちはしるしづけられているのだ。――カインが、恐怖と憎悪をよび起こし、当時の人類を狭い牧歌から危険な広い世界に追い出すためにしるしづけられていたように。人類の歩みに貢献した人々はみな等しく、運命に対する用意ができていたからこそ、有能有為だったのだ。それはモーゼにも仏陀にも、ナポレオンにもビスマークにもあてはまる。人間がどんな波に仕え、どんな極から支配されるかは、自分かってに選びうることではない。もしビスマークが社会民主党員を理解し、そこにピントを合わせたとしたら、彼は賢明な人であったかもしれないが、運命の人ではなかっただろう。ナポレオン、シーザー、ロヨラ、みんな同様だった。それを常に生物学的に進化論的に考えなければならない。地球の表面における変革が水棲動物を陸上にほうり上げ、陸棲動物を水中にほうりこんだとき、新たな前例のないことを遂行し、新しい順応によって自分の種を救うことができたのは、運命に対する用意のできていたものだった。それが以前その種の中で保守的なもの持続的なものとしてひいでたものであったか、あるいはむしろ変わり種であり変革的なものであったかどうかは、わからない。彼らは用意をしていた。だからこそ自分の種を救って、新しい発展に進むことができたのだ。それをぼくたちは知っている。だから、用意をしていよう」

 P.202
 「きょうはなにか起きている」と、私はためらいながら言い始めた。「ちょっとした雷雨ばかりじゃない」
 彼はさぐるように見た。
 「なにが見えたかい?」
 「うん。雲の中に一瞬はっきりと一つの形を見たよ」
 「どういう形だい?」
 「鳥だった」
 「ハイタカかい?そうだったかい?きみの夢の鳥かい?」
 「そうだ、ぼくのハイタカだった。黄色で巨大で、青黒い空の中に飛びこんでしまった」
 デミアンは深く息をついた。
 ノックの音がした。年とった女中がお茶を持って来た。
 「さあ飲みたまえ、シンクレール、どうぞ。――きみはその鳥を偶然に見たんじゃない、とぼくは思うね」
 「偶然に?ああいうものが偶然に見られるかね」
 「そうだ、見られないとも。鳥にはなにか意味がある。なんだか知っているかい?」
 「知らない。ぼくはただ、それが一つの動揺、運命の中の歩みを意味するのを感じるだけだ。それはわれわれみんなに関心があると思うね」

 P.212
 私が戦場におもむいたのは、もうかれこれ冬だった。中略
 時とともに、私は人間を過小に評価していたことを知った。軍務と共通な危険が彼らを非常に画一的にしていたにもかかわらず、多くの人が、生きているものも死ぬものも、運命の意志にりっぱに近づくのを、私は見た。多くのもの、非常に多くのものが、攻撃の際ばかりでなく、いつでも、目的は少しも関知せずに、巨大な運命にまかせきったまなざし、見すえられた、遠い、少しばかり物につかれたまなざしを持っていた。これらの人々はどんなことを信じ考えているにせよ――覚語はできており、有用であった。彼らから未来を作ることができるだろう。世界が戦争と英雄精神、名誉とほかの古い理想を頑強に目ざしているように見えれば見えるほど、また外面的な人間性のすべての声が遠くほんとらしく聞こえれば聞こえるほど、それらすべては表面にすぎなかった。ちょうど戦争の外的な政治的な目的が表面にすぎなかったように。底のほうでなにかが成長しつつあった。新しい人間性のようななにかが。なぜなら、多くの人々が――中には私のそばで死んだものも少なくなかったが――憎しみも憤りも殺戮も殲滅も、相手には直接関係ないのだという悟りを感じているのを、私は見ることができたのだから。否、相手も目的もまったく偶然だった。根本の感情は、どんなに激しいものでも、敵に向けられてはいなかった。その血なまぐさいしわざは、内心の放射にすぎなかった。新たに生まれうるために、狂い殺し滅ぼし死なんと欲する、内的に分裂した魂の放射にすぎなかった。巨大な鳥から卵が出ようと戦っていた。卵は世界だった。世界は崩壊しなければならなかった。