音楽

小澤征爾 武満徹
新潮文庫




受け身の音楽は音楽じゃない


小澤 音楽にとって大事なことは、これは何度も話したことなんだけど、僕の恩師の今井信雄っていう成瀬中学時代の先生がね、夏目漱石の『坊ちゃん』っていう小説を読めっていうの。するとね、その頃中学生で『坊ちゃん』読むの、めんど臭いわけよ、岩波文庫の、こんなちっちゃいの、拾い拾い読むわけでしょう。誰かがね、ちょうど新宿の名画座でさ、七十円だか、学割四十円だかの安い映画館……。
武満 昔でしょ、帝都名画座ね。
小澤 帝都座の名画座でやってるというわけよ。映画の『坊ちゃん』を観に行きゃ小説を読んだことになるのと一緒じゃねぇか、という寸法よ。本は買ったけど、めんど臭いから、それ観に行ったの。先生に、感想を言う時にみごとバレちゃったの。そりゃバレるのが必定よね。先生が、映画ですませたものは手を挙げろって。男ばかり、十五、六人いた。その時に今井先生が言ったことをよく憶えているんだけれども、文学でまず大事なのは、本をどっかへ買いに行くこと。本を見つけたら、本を読むための、字を読む知識を持たなければいけないこと。一人で坐って一行一行字を拾って、自分で字を理解して、それで何行か読み終わった時に何行か分の知識が頭へ入る。それから主人公の顔も、作者が、このような顔だ、と書いても、読者の頭の中には違う顔が浮かぶはずだというわけ。同じ赤シャツでも、赤シャツの上にどんな顔が浮かぶか、鼻が低いか高いか、みんな違う。そういうことが文学では大事なんだと。そういう作家対個人の間に本が一冊しかない、その間に映画監督もなきゃ映画俳優の顔もない、それが大事だ、って教えてくれたの。
音楽もそれと一緒でね、『死と少女』も、兄貴のあとについて他人の家まで、苦労して行って聴かなかったら、ただ家でガンガン鳴ってたんだったら、親父なんかが趣味で聴いてたり、兄貴が好きで聴いてたりしたのだったら、僕はその時まで憶えてなかったと思うんだよ。少なくとも印象がちがうよ。なぜ印象深いかっていうと、電車に乗って遠いところまで行って、それを聴きたいという気持で、お茶をご馳走になってからみんな柱へ寄りかかって目つぶって聴くわけよ。その頃は、竹針ってのがあって、レコードかけると……。
武満 うん、竹針ね。
小澤 竹針つける動作とか、なにごとかを自分でしないと記憶に残んないんじゃないかと思うんだ。たとえば食い物で記憶に残る味というものは、やっぱり自分でテーストしてるから残るわけでしょ。僕この頃思い始めたんだけど、門前の小僧はなんとか習うって言うけどさ、家にレコードがたくさんあったり、ラジオやテレビであんまり音楽なんかやってると、子供の頃から音楽聴いてても印象なんか逆に何にも残んないんじゃないかな。
武満 それははっきり言えないな。でも、多分そうだと思うよ。
小澤 ねえ。
武満 少なくとも僕の場合はね、音楽をどうしてやったかを考えるとね、音楽に飢えてたからなんだよ。音楽が今のように自由にすぐ手に入らなかったことが、実際にはむしろ僕をかきたてた。勿論それだけじゃないけど。今は簡単に音楽がすぐ聴こえてくる。音楽はやっぱり受け身になってやるもんじゃないよ。いつでも自分がするものだよね、聴くにしても。
小澤 さっきの『坊ちゃん』の話みたいだけど、本を買って読む、という動作、あるいは手続きが、やっぱり音楽の場合でも必要だということですよ。
武満 そうだね
小澤 僕はそれはとっても重要だと思うがなあ。自分で実際に演奏しないまでも、演奏するぐらいまでの動作をするとか、まあ変な話だけど、演奏会場まで電車に乗っていくとか、という手続き、あるいは一歩前進して、音を実際に鳴らしてみるということが必要だよね。
まあ、初歩的な話しだけど、音楽にはメロディとリズムとハーモニーがある。例えばそのハーモニーにしても、先生に、三つの「ド」「ミ」「ソ」という音は合いますよ、と言われて、それが実際にボーっと鳴ると、それを聴いて、きれいだな、と思うのも、ひとつの具体的な経験でしょう。それを今度は自分で一つ一つ指で触って鳴らしてみせる、ピアノなりオルガンなりでね。自分で鳴らしてみる作業が、最初にそうやった瞬間が、その人と音楽との結びつきをまるで違う次元にまで一段と深めることになると思うんだな。一回も歌を歌わない人は、まずいないと思うけどね。だけど、いわゆるハーモニーを自分で作ってみた人は、非常に少ないわけね。
武満 とくに日本人の場合は少ないでしょうね、今まではね。
小澤 それから手拍子はみんな打つけども、もちょっとだけ複雑な手拍子ね。よく音楽学生がやるゲームがあるんですけど、二人で、タンタンタタンタタン、タンタンタンタン……と右手と左手を分けてやる。そういうふうに一歩複雑化してやるのと、いつまでも酔っ払ったときにやるエーラコーラという一番原始的な、心臓の脈打とおんなじやつやっているのとじゃちがうわけですよ。最も原始的なビートの中から途中一つ抜くのだけでもうちがうわけですよ。ターン、ターン、ターン、四つ目抜いた、エーラっと。それでもうリズムの経験が一段深まると思うんですけどね。だけども今はだんだん世の中変わってきて、レコードもよくなって、テレビもよくなって、ラジオもよくなって、なんにもしないで、音楽が向う側からやって来るもんだと思っているのとちがうかな。ホテルのエレベーターに乗ればひどい話、音楽が向うからやって来る。
武満 ミューザックね。
小澤 そう、そう。
武満 ミューザックというのはたぶん、商品名でしょうね。
小澤 有線放送ね。この頃はたくさん会社ができたみたいね。会社によって、うちはクラシックだけ、しかもクラシックもバロック的なやつ、一番新しいとこでもモーツアルト。ブラームスはもういやだと、いうぐあいなのがあるわけよ、アメリカでは。だからそこの会社へ行くと朝から晩までヴィヴァルディかバッハか、あるいはテレマンとか、それからたまに、モーツアルトやハイドンが出てきたりするけどね、ブラームスの音は絶対に聞こえないという具合にね。ロマンチックな音や部厚い音なんかぜんぜん出てこない。そういうミューザックもあるわけ。しかしそういう受け身の音楽は音楽とは言えないのであって、自分から手をくだすものが音楽じゃないかな。