音楽

小澤征爾 武満徹
新潮文庫




日本人の耳、西洋人の耳


武満 もともとヴァイオリンだってさ、古い木に羊の腸を張って、馬のシッポでこすって、いい音が出るわけでしょ。だいたいそういうプリミティブなものを、日本は戦後、工業化して近代化して、そういうプリミティブな謎めいた部分をネグって、いい音をつくることに専念してきたわけよ。西洋を追い越すいい音をつくることを。だけど、音は西洋に負けるとか負けないとかの問題じゃなくて、いい、あたたかい音とか冷たい音があるんでさ。あたたかい音は、やっぱり人間が手と耳でつくっていくんだからね。
小澤 全く理屈はその通り、正しいんだけどね。しかし具体的に僕が日本で演奏しようとする時に理屈じゃ解決しない困った問題に逢着するんですよ、僕らみたいな現場の人間は。こないだボストン・シンフォニーが来たでしょう、日本に。僕にとってみると弦の響きが、まああなたがいま原始的と言ったけど、弦の響きはまさに原始的なわけよ。要するに糸こすって、その摩擦音が、古い木の空洞に反響して、お客の耳に入る仕掛けになっているんだから。その響きを出す装置の原理自体は、もう単純そのものだよ。ところが、僕はいつも日本に帰ってくるたびに、日本のオーケストラの弦の響きはとても正確だし、アンサンブルも秀れているけれども、どこか、あの木の空洞がワーンワンワンって鳴ってる感じがしない。メリハリははっきりしてるんだけど、ホワンホワンと鳴ってる響きがない、といつも思っていたわけ。それがないと間もとれないわけよ。わかる?
武満 わかる、わかる。
小澤 要するにフルトヴェングラーとかさ、偉い先生は間のとり方がうまかったって言うじゃない。日本人はせせこましい……。僕なんかしょっちゅう言われるよ、オザワはせせこましい、オザワはキューをやりすぎる。キューってのは合図、サインね。合図をオーケストラにあげすぎるって言われる。なぜかっていうと、日本のホールの場合、音の流れにすきまがあいてるからなんだよ。そういう音を聞いて育っているからその習慣が残っているわけよ。日本人はきちょうめんだからサインを出しすぎるわけよ、そこを埋めようとして。ところがボストン・シンフォニー・ホールでやると、ホワーンと鳴ってるから、そんなサインなんかするひまも必要もなくなっちゃう。あんまりしなくなるわけ。そうすると今度はね、そういうアトモスフェアで音楽つくろうという気持ちになる。まあ言ってみりゃ、そのホールの自然の響きを利用する。響きに頼って音楽つくる。それはいけないんじゃないかと一時期思ったこともあったよ。ところが僕は最近、作曲した人もそういうのを当てこんでつくったに違いないと思うようになってきたわけだよ。利用して音楽をつくるのはあんまりよくないとね、ほんの何年か前にね。それは僕が日本人で日本で育ったから、そう思ったんじゃないかと思うんだよ。
武満 なるほど。
小澤 ところが日本へ帰ってくるとね、やっぱり鳴らないわけ、日本のオーケストラの弦が。みんなうまいんだけど。こないだボストンと一緒に来日したんだけれども、日本に来るとたしかにボストンも鳴らないときもあるんだよ。日本の風土の中では。
武満 弦がね。
小澤 うん。来日後二週間ぐらいたつとね。それは湿気ってくるせいか、ホールのせいか、ほんとうのところは僕はわかんないけど、ホールのせいもあると思うな。
武満 それがすべての条件だろうね、たぶん。
小澤 ホールが鳴らないように出来てるんじゃないかと思うんだ。日比谷公会堂でやったわけ。日比谷公会堂は、僕にしてみりゃ音楽のメッカだよ。僕が生れて初めて音楽聴いたのもあそこだし、あすこはメッカなんです。だけどね、弦の響きがどうしても出来上がらないわけ。出来上がんないから苦労するわけですよ。どうやってつくろうかと思って、みんな。そうすっとね、みんなが少うしずつ音長く弾いたりするわけ。
だから、そういうことを総合して考えると、日本人が西洋音楽の伝統的な響きを持っていない理由は、湿気と、ホールの影響があるんじゃないかと思うんだな。畳の上じゃいっくらヴァイオリン弾いたって、絶対鳴らないよね。
武満 でもね、西洋音楽の楽器の場合は割合とどこででも音が出るように合理的にできているけれど、本来音楽というものは、その音楽がつくられた国と風土を離れてはなかなか音が出にくいのだろうと思うよ。というのは、卑近な例では、僕が作曲した『ノヴェンバー・ステップス』のときの鶴田錦史さんの琵琶なんか象徴的だった。ニューヨークへ持っていくと困っちゃうわけですね。
小澤 ああ、乾いちゃって。
武満 もう泣く泣く琵琶に水かけたり、八百屋でレタスを買って琵琶をくるんだりね。
小澤 レモンを中に入れたりね。
武満 尺八だって、スパッとまん中から割れちゃうでしょう。いつもガーゼかけて、レタスの葉っぱ巻いて、水まいてさ、湿度計とにらめっこしてるわけでしょう、ニューヨークでは。ところが日本にいたら、そんなことないですよ。ああ、きょうは湿気ってるから音がこもっちゃう、と言う程度で。ところがニューヨークでは突然割れちゃう。尺八や琵琶はほんとは日本でいちばん具合がいいわけ。むしろ、だからああいう楽器ができてきているわけ。本来楽器にはそういう性格があるんじゃない、本当はね。したがって日本人のヴァイオリニストは外国に行くと、とっても楽だっていうじゃない。突然鳴り出して、自分の音がよく聴こえる、悪い楽器でもさ。
小澤 ハハハハ。
だいたいね、楽器、日本へ来て、2週間ぐらいで変わるみたいね、僕が見てると。たぶん湿気でね。乾いたところへ帰ったら、また元に戻るのだろうけどね。やっぱり湿気だけですかね、あれ。もしかしたら湿気以外にもなにかあるかもね、ない?
武満 ホールと湿気と伝統のせいだよ。
小澤 湿気だけじゃないかもしれないってことを、この頃思うんだけどね。日本人の吹く金管楽器ね、一人ひとりは違うよ。たとえばベルリン・オペラに田宮堅二っていうトランペット奏者がいるのね、小説家の田宮虎彦さんの息子さんだけどね。その息子がトランペットうまいんですよ。その人の音、目えつぶって聴いてると、日本人の音とは思えないな、おれには。
だけども日本へ帰って来て日本のブラス聴くとき、あ、これが日本のブラスだったと、必ず思うわけ。悪口言ってんじゃないよ。
武満 僕もいつもそう思う、極端にそう思う。それは何だろうと考えるんだけどね、さっきの日本のせせっこましさ、急テンポで展開していくっていうのと同じなんだけどね。トランペットの口元のところと先だけで鳴っていて、途中がぜんぜん鳴ってない感じなんだよね。トランペットの口元のところと先だけで鳴っていて、途中がぜんぜん鳴ってない感じなんだよね。トランペットは管が長く巻いてるわけじゃない。そこに充分空気がかよって音が出てくれば、豊かな金色のいい音が出てくるのにね。パッと口先と、むこうの出口だけで鳴らそうというせせっこましい感じね。貧弱なんじゃない。
小澤 うん、そう言われてみればそうだ。
武満 だから金管のフォルテが、とってもつっけんどんだよね。フォルテといったってさ、ポカーンというパンチじゃないんだからね。やわらかいフォルテだってあるじゃない。それが日本のオーケストラで金管のフォルテというのは、やさしさがないんじゃないかな。
小澤 そうかもしれないねえ。
武満 僕はいつもそう思うんだけどね。
小澤 いわゆる金管の音がしない。そういう気持はある……。
武満 だってシカゴ・シンフォニーが日本に来たときに聴いたってさ、ピアニッシモのときでもものすごく金色に鳴ってるじゃない。ああいうことは同じ日本で演奏する日本のオーケストラにはないんじゃない。日本のオーケストラでもフォルテだとまあね。チャイコフスキーのフォルテだと一応響くけどね、ちょっとピアノになるとね……残念だけども。それはなぜだろうね。
小澤 それはもちろん湿気じゃないでしょう。
武満 湿気じゃない。それはだから、日本人の音のいつくしみみたいなもんだな、愛の問題だと思うよ、おれ。やはりさ、どうやって自分の音をつくるか――。ピアノみたいな楽器の演奏でも、こうやって指をふるわせても [武満氏、演奏してみせる] ビブラートかかんないかもしれないけど、それでも、一人ひとり、打鍵の方法を工夫するじゃない。ピアノみたいに精巧につくられたメカニズムでも、ポリーニとさ、ピーター・ゼルキンと違うし、その親父のルドルフ・ゼルキンともぜんぜん音色がちがうじゃない。金管なんか口使っているんだから、もっと敏感に違うはずだよ。その音のつくり方が。
だから僕は、音楽はそういう謎の部分が大切なんだと思うな。結局、僕は小澤さんを見ていて、あなたの音楽を素晴らしいと感ずるのは、その愛し方だよね。おとのいつくしみ方のちがいだよ。音を自分が掴んでみよう、触ってみようとするわけでしょ。指揮は単にメトリック、数学じゃないのだから。
小澤 まあ、僕の場合、幸いしているのは、ほんとうにいい音を聴くチャンスが多かったことだよ。カラヤン先生のところで習っている時なんてさ、もうしょっちゅう練習聴いていてね。それからニューヨーク・フィルでのバーンスタイン、タングルウッド、ボストンでのミュンシュでもそうだし、ヨーロッパでも、ほんとうにいい音を聴くチャンスが多かった。すごくラッキーだったよ。
武満 それはあなたの才能が切り拓いた幸運だったけどね。
小澤 このあいだ、ボストンの僕の家に武満さんとピーター・ゼルキンと、マウリツィオ・ポリーニとポリーニの美人の奥さんとが来てくれたよね。たまたまだけどね、そのとき四人そろったのがいいところなんですね、音楽が結ぶ絆というのは。で僕は内心、政治的な論争になるんじゃないかと心配していたんだけど、ならなかったね、あの時は。
武満 ああ、あんまりならなかった(笑)
小澤 だけど、ピーターとポリーニのその音色の違いたるやね、いい悪いじゃないですよ、これ。ぜんぜん違うわけね。それからもう一人ここに名前が出たほうが面白いと思うのは、高橋悠治というピアニスト。彼も武満さんの曲を弾くのうまいわけね。悠治の音色とポリーニの音色と、ピーター・ゼルキンの音色を、おんなじピアノで、おんなじ時間にね、要するに湿度もなにもかも同じ条件で弾かしたら、これはもう素人が聴いても、みんな音が違う。
武満 その違いたるやおそろしいくらいだ。
小澤 ポリーニが再デビューした時、最初の北アメリカの音楽会は、僕が指揮しているんですよ。僕は彼と、そのくらいの昔からのつき合いなんです。その演奏会は、はじめはミソクソにやられてね、冷たいって。あの人、冷たく見られるんだ。あんなにね、ロマンチックな男はいないんだけどね、音楽家のなかで。
武満 そうだね。
小澤 ポリーニのいいところは、ほら座頭市がさ、なんか探し求める時、白目を出して顔が上向くじゃない。三白眼になっちゃって [小澤氏座頭市のマネをする]。あれなんだよね、ポリーニのよさというのは。目を細めて何かを探そうと思うとさ、顔が上へいくでしょ。こう下へはいかない。必ず目の悪い人はみんなこういくと言うじゃない。あごが先に出て、耳を働かせてさ。ポリーニがね、それを始めると、僕はひやかすのね。伴奏しながら小声で、「ああ、また始まった」ってね。あいつ、いやな顔するけどね、そうなるともう音楽の流れ方が僕にはピッタリとわかるの。彼には彼流の理屈があって、こないだブラームスの協奏曲やったんだけど、彼にブラームスについての理屈があってね、その理屈が小難しいのだけれど、しかし彼が座頭市になれば、僕にはもう彼がなにも言わなくても彼の気持は全部わかっちゃう。そういう芸術なんだよ。面白いよ、あの人。僕はほんとうに好きだ。
武満 そう、ピーターもポリーニも自分の音をいつくしんでいる。