音楽

小澤征爾 武満徹
新潮文庫




日本人の耳、西洋人の耳


小澤 テクノロジーっていうんですか、科学が発達したから吸音板が出来て、床にはリノリュームかなんかが張ってあって、絶対に今まで聴いたことがないような質のベートーベンとかメンデルスゾーンが、そこで演奏されて、音楽家が育っている。ほんとうにこれは怖ろしいことです。さっきのスタジオの話も怖ろしいけれども。 もっと怖ろしいのは、音楽雑誌を読むと、おわりのほうの色ページに機械の話しか書いてないでしょ。その音が問題ですね。
武満 そうなの。あれは、日本だけの特殊な現象だね。
小澤 まったく特殊だ。
武満 おそらく世界で日本だけだね。音楽雑誌にあれがないと売れないんだよ。オーディオ機械の解説が本体で、音楽記事は付録なんだ。
小澤 ところが、それはよく考えてみるとさ、音楽のためにやってるわけでしょ。
武満 そりゃそうだ。
小澤 すると、誰かそれをつくる人、つくるように指導してる人の耳がどっかになきゃいけないわけでしょ。そこんとこの人がどう考えているか問題だ。たとえば飛行場を歩いていてさ、あるゲートに人がたむろして、ザワザワしてるでしょう。言葉ははっきりは聞こえないけど、ワァワァしてる。日本人だけのグループの声の質が違うわけね。もちろんチャイニーズも、たとえばドイツ人もフランス人もみんな違うわけですけど、日本人の声とかチャイニーズ、コリャンは、硬い、のどの上の方で鳴ってる音なわけね。そういう耳が、日本人にはあるわけじゃないかね。
武満 それは関係あるでしょう。
小澤 そうするとね、硬い、しかもクリアな東洋の音に、西洋音楽はホワーンとしているからというわけで、そこにエコーをかける。僕は単純化して言うんだけどさ。なんかそういう道筋が自然とできてんじゃないかと思うんだよね。
武満 そうね。
いま小澤さんが言っていた日本人の特殊な音感は、実際に最近角田忠信さんというお医者さんが研究して、人間の脳は、左右役割が違うらしいんだけど、左の脳半球は、どっちかというと言語を扱う。右の半球が音楽を扱うらしい。
小澤 へーえ
武満 で、角田さんが西洋人と日本人の耳と脳の違いを、いろんな実験をくり返して研究したんだけれど、西洋人は音楽を右半球で全部処理する。ノイズというか、虫の声などは左半球で処理している。雑音としてね。ところが日本人は反対に虫の声なんかも音楽の音と一緒に全部おなじとこで処理する。すなわち左で全部聴いているらしい。
小澤 じゃ右はどうしてるわけ。
武満 西洋の楽器は右で聴いている。
小澤 ほんとかい、その話。酒飲みながら聞いてると、なにか信じられないよ。
武満 いや、真面目な話、かなり注目を集めた研究なんだよ。
小澤 それは東洋人と西洋人の違いってこと……?
武満 東洋人というより、日本人が違うわけ。中国人は西洋人に近いわけ。それはなぜかというと、日本人の言語の母音の構造からきているというわけ。だからポリネシアと日本は割合近いんです。実験してみるとね。
小澤 だけど、母音も子音もさ、イタリア語と日本語は似てるじゃない、そういうことはない?
武満 うん、似ている。だけど、イタリア語は、まあ母音が目立つけれども、やっぱり子音の国なんだね。なぜなら、母音だけで意味がある言葉って日本語しかないわけ。たとえば「イ」といっても「衣」もあるし、「胃」もある。「エ」といっても「柄」があったり「絵」があるでしょう。ところが外国で母音だけで「エ」っていうので意味のある国は少ないでしょう。要するに日本語には母音の特殊な構造がある。そういう研究をしてる人がいるんだけど、僕にも、ちょっと疑問はあるんだけれど、言語のことはかなり信憑性があるようだね。もっと実験をくり返して信憑性をたかめてほしいけれど、日本人は非常に特殊な音感を持っているらしいよ。
けれども、さっきの、日本人が特殊な音を求めはじめているらしいという話とは、次元の違う問題でしょうね。その録音スタジオの不思議な音の問題は、日本人が本当の音の響きを、まだ知らないから派生する問題でしょう。僕たちが西洋近代音楽の本当の豊かな響きを知っているか知っていないかですよね。西欧の豊かな響きを知るためにはやはり時間がいるんですよ、本当はね。ところがいま日本人がぶつかっている問題は、西洋が当面している問題とおんなじところにまで来ちゃってる。西洋人たちが三百年ぐらいかけて、ゆっくりとつくりあげてきた西洋音楽の響きを、日本人は百年もかけないで追いつき追い越そうとしている。そこに無理や歪みが生じるのは当然でしょう。西欧では例えば、バッハが教会で演奏してからカラヤンがベルリンのホールで演奏するまで三百年ぐらいかかっている。日本では西欧音楽が輸入されてからわずかな時間で現代まで来ちゃっている。ほんとは教会の響きとか、街の、馬小屋でやってた音楽会とか、そういう無数の経験を知らなきゃいけない。僕はべつに保守主義者じゃない。むしろ進歩的な意見の持ち主だけれども、音楽はさ、どっちかというと原始的なもんだよね。