佐藤俊明『修証義に学ぶ』

第十二節 正しい信仰



 若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや、徒らに所逼(1)を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多(2)に帰依すること勿れ、彼は其帰依に因りて衆苦(3)を解脱(4)すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提(5)を成就すべし。

 (1)所逼 逼られること。わが身にふりかかる心配なこと。
 (2)制多 殿堂、祠のこと。
 (3)衆苦 さまざまな苦しみや悩み。苦とは身心を悩ます不安な状態。生・老・病・死を四苦といい、これに愛別離苦(愛する者と別れなければならぬ苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎む者と会わねばならぬ苦しみ)、求不得苦(欲しい物が手に入らない苦しみ)、五蘊盛苦(五蘊とは身心のこと。身心が旺盛で、烈しい欲望とのたたかいの苦しみ)の四つを加えて八苦という。
 (4)解脱 束縛から離れて自由になること。悟ること。
 (5)菩提 迷いを断ち切って得られた悟りの智慧。通俗的には冥福の意に用いられている。

 (大意)
 福や徳に恵まれないものは、三宝という言葉さえも聞くことができない。いわんや、三宝に帰依することなど到底できないことである。だから何か不安なことでもあると、ただわけもなく迷信に誘われて、山の神やえたいの知れない鬼神までも信仰したり、あるいは邪教の廟や祠などに帰依したりするが、そんなことではいけない。なぜならそのような迷信邪教によっては、人生の苦悩を解脱することはできないからである。早く仏法僧の三宝に帰依して、人生の苦悩を克服するのみならず、仏の道を成就しなくてはならない。





 さて、一口に宗教と称されているものに、生活の苦悩を解消しようとするものと、生命の苦悩からの解脱を教えるものとふたつあります。前者が果たして宗教といわれるか否かは問題のあるところですが、私どもの周囲によく見られる「宗教」であります。この「宗教」では、病気平癒のためにはどこそこの薬師さま、金もうけには○○の稲荷さま、開運には××のお不動さま、といった具合に、苦悩解脱の願望によって信仰帰依の対象を選択している人が多いのです。これは、夫婦関係でいえばまさに浮気の沙汰の限りで、生涯を托するに足る僧侶と一心同体でなければ真のしあわせは得られないと同様、このような信仰によって、苦悩からのがれることはできないのであります。「徒らに所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多に帰依すること勿れ、彼はその帰依に因りて衆苦を解脱すること無し」であります。
 私どもが生活において経験する苦悩から真にのがれようとすれば、人間生命それ自体に起因する苦悩からの解脱が先決であり、その苦悩と対決する宗教は、生の依る所、死の帰する所を求め、生やそれにより、死やそれに帰する、永遠の生命と生きることなので、配偶者に一生を託するように、唯一絶対の信仰帰依の対象にすべてを托すのであります。だから、ジェームスは、信仰を「冒険」といい、パスカルは「賭」だというのです。これはともに一言にして信仰の心的特徴を道破したものであります。これをわかりやすく表現したのが、親鸞聖人の次の言葉であります。
 親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。……(『歎異抄』)
その信心が成功を約束するか、それとも破滅を招来するかは「総じてもて存知せ」ず、ただただ「よきひとのおほせ」に従う冒険をあえてし、自分の一切を賭けるのが信仰であり、帰依であります。道元禅師もまた同じように述べております。
 ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき……
これは確かに冒険であり賭でありますが、道元禅師は、さらに言葉をつづけて、「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵』「生死」)と、「信現成のところは、仏祖現成のところなり」(『正法眼蔵』「菩提分法」)と証明しておられます。
そこで、「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就」することが肝要であります。