古き大洋よ、おまえがやしなっている魚たちのさまざまな種族は、おたがいに友愛を誓いあったりはしない。それぞれがそれぞれに生きている。種族ごとに異なる気質と形態とは、はじめは畸型としか思えない場合にも、やがては納得のいくように説きあかしてくれる。人間もおなじことなのだろうが、魚たちとおなじ理由では説明できない。地球の一角が三千万人の人間に占拠されてしまうと、やはり大地のかけらに根を下ろしたと思い込んでいる隣人たちと、絶対にまざりあってはならないと、人間どもは思い込んでしまう。大から小まで人はみな、それぞれが未開人のように穴のなかでくらし、おなじようにべつの穴にうずくまっている同類を訪ねることさえ、めったにしない。世界の人類みな兄弟などというのは、凡庸きわまりない論理にふさわしい、たんなるユートピアにすぎない。それはともかく、おまえの豊かな乳房を見ていると、忘恩の概念がわきあがってくる。みじめな自分たちの結合の果実を棄てさる、造物主にたいしてたっぷりと恩知らずな、ぞろぞろいる親たちのことを、ようく考えてみろ。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!
古き大洋よ、おまえの物質的偉大さは、おまえの総量を産み出した活動力が創ったものさしでしか、はかることができない。ひとめでおまえを見渡すなんて、とても無理だ。おまえをしっかり見ようとすれば、水平線の四点に望遠鏡をなめらかに、ぐるりぐるりとまわさねばならない。それはまるで、数学者が代数の方程式を解くときに、スパッと答えを出すまえにあらかじめ、いくつかの可能な答えをべつべつに、検討しておかなければならないのとそっくりだ。人間どもは滋養のあるものをくらい、よりよい境遇にふさわしくでっぷり太っているのを他人に見せようとして、さらにそのうえに努力する。好きなだけふくれるがいい、この大蛙め。心配するな。そいつはおまえとおなじ大きさになれはしない。すくなくともぼくはそう思う。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!
古き大洋よ、おまえの水はにがい。それはまちがいなく、批評が美術に、学問に、そしてあらゆるものにたらす胆汁と、まったくおなじ味がする。批評は、もしだれかが才能をもっていれば彼を白痴にしてしまい、もしだれかが美しい肉体をもっていれば、それを醜いものにしてしまう。そんな批評をするのなら、人間の四分の三は自分に咎のある不完全さを、強制的に感じさせられていないと、困るじゃないか、まったく!
ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!
古き大洋よ、人間どもは学術調査のさまざまなすぐれた方法のたすけをかりても、おまえの深い淵のめくるめく深さを測るのに、いまだ成功していない。最高にながく、最高におもい測深器でもはかれない深淵を、おまえが持っているからだ。魚たち……魚たちにはそれが許され、人間どもには許されていない。ぼくはたびたび、海の深さと人の心の深さと、どちらがはかりやすいかとみずからに問うた。月がマストのあいだで不規則にゆれるころ、ぼくは船べりにたち、手を額にあてて、この命題以外のころはすべて捨て去り、ただこの難問だけを解こうとつとめている自分を発見して、そのたびにおどろいたものだ!
そうだ、どちらがより深いのか、二つのどちらがより不可解なのか、大洋なのか人の心なのか?
もし三十年の人生経験に、その二つの答えのどちらか片方に、あるていどまで秤をかたむけることが許されるなら、ぼくはこう言ってもさしつかえないだろう。この特性、つまり深さの比較に関しては、海のおそるべき深さといえども、人の心の深さとならべるのは無理だと。ぼくはかつて、有徳の士といわれる人たちとつきあいがあった。彼らは六十歳で死に、まわりの人びとは口々にこう叫んだ。「彼らはこの世で善いことをした。でもそれだけさ。もちろん悪くはないが、あの程度はだれだってできるよ。」
昨夜はげしく愛しあった恋人たちが、ほんのひとことの誤解がもとで、憎悪と復習、愛と後悔にさいなまれ、一人は東に一人は西へ、はなればなれになっていき、それぞれが尊大な孤独を身にまとい、二度と会おうともしないのはなぜか、などという問いに答えられるのはだれか?
それなどは、毎日のようにくりかえされながら、その不思議さがすこしも減らない奇蹟だ。人間は同類すべての不幸だけでなく、最愛の友人たちの個人的な不幸までも楽しみながら、同時に悲しむのはなぜかなどということにも、だれが答えられようか?
このシリーズをしめくくるために、反論不能の一例をあげるならこうだ。人間は猫をかぶってイエスと言いつつ、本音はノーなのだ。この本音と建前の使いわけのおかげで、人間の仔イノシシどもはおたがいを信じ、エゴイストにならずにすんでいる。心理学にはまだまだ、進歩の余地がのこされている。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!
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