チャクラの発達と覚醒

リードビーター著:『チャクラ』より要約



エーテル的チャクラの覚醒

 脾臓にある第二の中枢、つまりエーテル的身体の第二のチャクラが目覚めると、人は漠としたアストラル的領域の旅を思い出すことができるようになる。
 臍の部分にある第三のチャクラが活動しはじめると、人は生理的身体において、アストラル的次元のあらゆる種類の作用を自覚するようになる。それらの作用のどれが有益でどれが有害であるか、またどこが快い場所で、どこが不快な場所であるかということを、理由はよくわからなくても漠然と感知するようになる。
 心臓にある第四のチャクラが刺戟されると、人は、本能的に他人の喜びや悲しみを感じとるようになる。時には、他人に共感することによって、彼らの肉体的な苦痛まで自分自身の中に感じてしまうようにさえなる。
 咽喉にある第五のチャクラが目覚めると、一種の音が聞きとれるようになり、時にはこれがあらゆる種類の指示を与えたりもする。また、時には音楽が聞こえてきたり、それほど気持ちよくない音が聞こえることもある。このチャクラが十分にはたらくようになれば、人間はエーテル的次元でもアストラル的次元でも、霊聴能力をもつようになる。
眉間にある第六のチャクラが活発になると、いろいろなものが見えはじめ、さまざまの種類の幻視、時にはある場所とか、時にはある人といったものが見える。チャクラが目覚め始めたばかりの初期の段階では、色のついた景色や雲などがぼんやりと見える程度にすぎない。完全な覚醒に至ると、透視能力がもたらされる。(以下略



偶発的な透視

 完全な目覚めに至らなくても、人はしばしばアストラル的領域を垣間見ることがある。特別に強い波動は、蛇の火が全く活動していなくても、いつでもチャクラを活動させることがあるからである。また蛇の火がいくらか活動を始めて、発作的な透視がしばらく生じることもある。この火は、前にものべたように、七つの層、つまり七段階の力から成っている。多くの場合、意思の努力によってこれを目覚めさせようとする人は、その一つの層に影響を与えるぐらいのことはできる。彼は一たん仕事をなしとげたと考えても、やがてまだ十分ではないことを知り、何度もくり返して努力するようになるだろう。こうして次第に深く掘り下げてゆくことによって、この火の表層が刺戟されるだけに止まらず、火の核心そのものが全面的に活動するまでに至るのである。




早すぎる覚醒の危険

 『沈黙の声』では、この力を「火のような力」とよんでいる。まことにその通りで、それは意思によって一旦目覚めさせられると、流れ動く火のように身体をめぐってゆく。それが動いてゆく道筋は、蛇がとぐろを巻いたように螺旋状をしているのである。それが目覚めた状態は、前にのべたのとは別の意味において、「世界の母」とよぶにふさわしい。なぜなら、その力によってわれわれの身体の各次元が活気づけられ、それによってより高い次元の世界がわれわれの前に次々とひらけてくるからである。
 ふつうの人間の場合、この蛇の火は脊髄の尾低部に眠っていて、一生の間、その存在さえ気づかれないままである。人が一定の徳性をそなえ、彼の意志力がこの火を制御できるほど強くなり、また彼の思念が十分に純粋になって、火の目覚めを経験しても打撃を受けないようになるまでは、火はじっと眠ったままにしておく方がよいのである。(以下略
 私は、こういう有資格者の教授がないかぎり、この恐るべき力を目覚めさせるようなことはしないように、すべての修行者に向かって真剣に警告したい。というのは、この問題の重大さを知らなかったり誤った指示を与えたことから生じる恐るべき結果について、私自身が多くの事例を見てきたからである。この力はまことに恐るべきものであって、自然が蔵する最も根源的な事実の一つである。それはもてあそぶ事柄でもないし、手軽に取り上げるべき事柄でもない。何かわけもわからずにそういう試みをすることは、子供の玩具に火薬を与えるよりもはるかに危険である。『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』に記されている次の言葉は、まことに真実である。「クンダリニーの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(V,107.)
 こういう場合、修行者はしばしば、自分にだけは自然法則の例外が働いて、特別な神意が干渉し、愚かな行為をしてもその結果を免れることができると思いがちなものである。しかし、そういう奇跡は決して起こらない。爆発物をもてあそんで火をつける者は、たちまちその最初の犠牲者となる。