佐藤俊明『修証義に学ぶ』

因果応報



 善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪険に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。

 (大意)
 善悪の業に対する報いのあらわれかたに三通りある。第一は順現報受、現世でなした業の報いをこの世で受ける。第二は順次生受、次の世で報いを受ける。第三は順後次受、次の次の世(第三生)以後で果を受ける。これを三時業とか三時の業報という。仏々祖々の道を修め習うには、求道のはじめからこの三時業の道理を身にたしかめて明らかに知らなければならぬ、そうでないと、あやまった考えに陥るだけではなく、悪の道にさまよい、苦悩から脱却することができない。



― ある画 ―


 一人の旅人が山道を歩いていると、ふと、うしろに異様な物音がする。ふりかえってみると、獰猛な大虎が追っかけてくるではありませんか。
 「こりゃ、たいへん」と走り出した旅人は「あっ」と息を呑みました。なぜなら前は絶壁だったからです。
 「もはや、これまで!?」とあきらめかけたとき、崖っぷちにある大樹に巻きついた藤蔓が絶壁の下に伸びているのが眼にはいりました。
 「これは天のめぐみ、ありがたい」と、その藤蔓を伝って崖の中腹に降り、ほんの一瞬の差で猛虎の餌食にならなくてすんだのですが、「ああ、助かった」と思った途端、藤蔓をにぎりしめている手が間もなく体の重みを支え切れなくなっていることに気付きました。
 「下に降りよう」、そう思って下をうかがうと、こはいかに。とぐろを巻いた大蛇が口をあけて旅人の落ちてくるのを待っております。
 「こりゃ、いかん」と、近くに足場をさがすと、四匹の毒蛇が近寄らば噛みつくぞ、といわんばかりに赤い舌をペロペロ出しております。ぞっとして上を見ると、命の綱と頼む藤蔓を、樹の根もとで白と黒のねずみがガリガリかじっている。まさに絶体絶命、旅人はブルブルッと身ぶるいしました。
 その時、旅人の頭上二メートルほどのところの樹の枝にぶらさがっていた蜂の巣から、蜂蜜がポトリと落ちてきて、偶然にも旅人の口にはいりました。
 「ああ、うまい!」、旅人は陶然として酔ったように、絶望の現実を忘れてしあうのでした。
 これは『仏説譬喩経』にある話ですが、何を意味するのでしょう。山道を歩く旅人とは、起伏重畳の人生を歩む私ども人間の姿であります。いままでぼんやりしておりましたが、ふと気が付くと、うしろから大きな虎が迫ってくる。虎とは、各人が背負った業のことです。人間は、過去の悪業からのがれようと誰しも努力する。そして一時はうまくのがれ得たかに思うのです。それが藤蔓にしがみついてほっとしている旅人の姿です。ところが、崖の下には大蛇が、棺桶が蓋を開けているかのように待っております。死ぬのは嫌だ、近くに生きる場はないかとみれば四匹の毒蛇。これは、一切の物体を構成する地・水・火・風の四大元素のことです。四大不調などというように、この四大元素の不調によって病苦があらわれるといわれるのですが、それだけではなく、時に地震・洪水・火事・暴風となってたえず人間の生命をおびやかすのです。藤の蔓は命の綱、つまり人間の寿命です。そのかけがいのない寿命を、黒白の二鼠、つまり夜と昼が、不断に命の綱をかじっているのです。こういった上下四囲、窮地の真っ只中にありながら、人間は不思議にもそんな暗い顔をしておりません。それは、落ちてくる蜂蜜のしたたりが口にはいるからです。蜂蜜とは、財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲の五欲、つまりバグバグ儲けて食い気と色気をたのしみ、苦労せずに偉くなりたい、こうした欲があるからこそ生きているのも人間ですが、欲のために道を踏みはずし、さらに悪業を重ねてゆくのも人間であります。