〔未完聖人〕


Ψ 霊の世界はネットのように複雑で多次元である Ψ

インターネットで見かけた密教僧の経験と哲学。世界はフラクタルなので解釈は果てしなく広がりをみせる。この世界においてさらにオカルトを肯定する思考をもつと、人は迷いの思想にも転びかねない。研究しているうちに様々なことに気がついた。どんなに救いようのないものに映っても、その先があるようだ。僕はさじを投げてないのでそれを見届けたにすぎないが、人間は誰しも霊性や天賦の才に準じた次元にまでいける。一時的な見解はすぐに消える。一神教的な一元性としての確固たるものになっていない「軌跡」としてのもので、泡となって消えゆくものだ。かの「真実」は彼の中の真実であり、それは萬物の靈とならざる時分におけるもの。しかし萬物の靈となれば逃げ口の問答すらも一切出なくなるであろう。それが口をつくときには人間的思考の痕跡を辿っているということだ。天狗になると必ず何かを呼び寄せる。なんでもかんでも表に出してはいけない。それはたいがい腹を空かせたハイエナに漁られるからだ。




除霊について


霊格が高い人はより強烈な魔に狙われやすいというのはホントですか?私は普通の人だけど、ある時、親しくしてたある外人の聖職者にマザーテレサの形見を分けてもらってからしょっちゅう心臓発作が起きるようになってしまったんですよね・・・。私には相応しく無い物をいただいてしまったからこんな事になったのかそれともそんな霊格の高い福者の物をもってるから悪いものがそれ目掛けて来て私にも影響を及ぼしてるのか??(思い込み強いっすね)


マザーテレサはハート・チャクラの人だから、遺品を持った人のハートに変化が出た可能性もありますね。もし症状が重いなら、その聖職者にお返しする手もあります。処分はしない方が良いでしょう。
さて、私は霊視能力を封印していますが、貴方のことをイメージした際、心臓よりも上の部分に、妙なエネルギーの塊が感じられました。
色は黒と赤です。
これが何を意味してるか分かりません。
いわゆる肉体の異常を、象徴的に表わしたシグナルなのか、それともエネルギー体レベルの異常を示してるのか、判別がつきません。


私はいつも夜中3時ごろ意思と反して勝手に夢遊病のように寝室から食堂に歩いていってなにか食べてしまいます。いつも起きてる時はもうイヤだと思ってるのにいつも夜中大体同じ時間3時くらいにハッと気付いたら食堂にいて口に物を入れてるんです。ネタじゃなくマジでそういう自分が怖いです。私は中肉中背で友達は痩せる必要ないと言ってくれるけど夜中のおかしな自分がこわい。それで質問させていただきました。

憑依が原因で、意思に反した行動を取ってしまうことは有り得ます。無意識的なトラウマが原因の場合もあります。しかし、最も害毒になるのは、自分で自分を怖がり、拒否してしまうことです。抵抗し過ぎることで、その対象がパワーアップし、ますます現象が悪化してしまうことが有るのです。
貴方の場合、その現象を拒否せず、肯定もせず、ただ客観的に観察すると良いかもしれません。意識的にコントロールせず、現象に対する 「理解の目」 を深めることです。常に自己内部に観察の目を向け、思考や感情の動きを自覚し続ける。

サルトルによれば意識は内部をもたず、世界に向かって、また未来に向かって自分を投げかける運動以外の何ものでもなく、世界との距離を生きる中で自分との距離を生きるもの。「私は私がそれであるところのものではなく、私がそれでないところのものである」というこの無の概念を行動の哲学として提起した。世界や未来に向かって積極的に行動する生き方は、反省によって語られる本質に先立つというスタンス。行動を規定するものを何も持たず自由であることしか許されない人間はある意味で「自由の刑」に処されている。(PHP研究所 「哲学」ビジュアル図解シリーズ)

応急処置的になりますが、気功とかイメージ法をやってる人は、エネルギーを抜くテクニックが応用できます。
邪気を抜き、宇宙や地球の中心に流して、清めていただくイメージ。肉体面でのアクションを付けると効果的です。あるヒーラーは、縄跳びの際に尾てい骨に加わる衝撃を利用して、尾てい骨の邪気がズボッと抜けるイメージを繰り返すそうです。私はヨガの逆立ちの際、頭頂のゴミが地球の中心に流れるイメージを併用しています。

イメージはとても大切だ。イメージがなければ150kmには対応できない。健康な人間はよいイメージのほうを描く。不健康な人でも悪いイメージを拘りなく捨てることができるならうまく自分を導くことができる。

邪気対策として、ハタ・ヨーガでは、自然塩を溶かしたぬるま湯を大量に飲んで、吐き出すテクニックを教えています。中途半端に飲むのではなく、限界まで飲む。中途半端に吐くのではなく、徹底的に吐き切る。ただし、腎臓や肝臓に障害がある人や、動脈瘤の人は危険です。実行しないように!! 胃の中に食物が入ってる時も、危険ですね。

やってみたいけどやめておこう。
「匿名掲示板のレスからビンビンにエネルギーを感じるほど強力な能力を持っていた人でも、その後、エネルギーが急減少した人がいますね。それは 「体験的にモノを語れる要素」 の減少を意味します。ただし物事の本質とは無関係な幻想体験は増える可能性があります。」 と言う憑き物がのり伝染るから。



大威徳明王真言
オン シュチリ キャラロハ ウン ケン ソワカ
怨敵降伏の利益があるようだ。死神マヤを倒す。
相手に死神がついている場合効果があるだろう。
自分に死神がついている場合には自分自身に効果があるだろう。



人間という生命体が、肉体次元だけでも複雑な構成であり、これに各エネルギー体も存在しますから、複合的に捉えるべきでしょうね。現代人のほとんどが、エネルギー体に深いダメージを負っていますから、本当に健康な人は少ないのです。

実はほくそ笑んでないかな

今は、宇宙レベルで波動の質がどんどん変化している時期なので、一般大衆でも色々な能力がエネルギーが簡単に得易くなっています。
古い時代の宗教的な法則がどんどん崩れています。


新興宗教のような問答。
高い次元の神ほど普遍的になる。
次のビッグバンで数学の公式が変わっていることはないだろう。
高いものほどわかりづらい。萬葉集の世界はかんながらでなければ理解できない。
曖昧さこそが気高い。
宗教は大きな河に似ている。源泉から遠ざかるにつれて、絶え間なく汚染している。(プレヴォ)


お経は、仏になるための修行法や、真理の法則を説いたものだ。
除霊や願望達成用の加持祈祷の武器ではなかった本来は。
日本人なら日本語に翻訳されたものを読むのが自然だろうね。
まして祈祷目的で機械的に読んでも意味は無い。
変な霊を呼んでしまうこともある。
とはいえ、私も祈祷用に良く使うのだがww

真理を用いた真理の理解から程遠い奴の独善的な攻撃。 強力な蚊が潜み、電気を消すと飛び交ってくるような田舎風味の鬱作用をもたらす。能力はあるけど本物を気取っているまだ本物でない状態。
こらえ性のない人はよく牽制する。高邁さがいかなるものか、まず概念としてわかってないのかもしれない。猜疑が多いのは地獄を生き抜いてきたからかな。人間身の危険はよく覚えている。でも構えていてはいつまで経ってもこのままだ。せっかく帰依してもまた、依存しているとの批判が頭をもたげる。
あと、とりあえず意味がわからなくても効果あるね。無理に意味を知ろうとしても自分の低級な思念のもつ慣性からしか結論は得られない。その哲学が変な霊なのかもしれないね。色不異空


私は、貴方の波動をある程度まで理解している。(もちろん理解してない部分も多いし、誤解もあった)。問題は、言葉の奥に有るものだ。誤魔化すことは出来ない。だが、本人が自覚していないものを相手側が指摘した時、簡単に誤解が生まれる。理解した者が理解不足扱いされ、理解してない本人が、相手のことを理解不足だと思い込んでしまう。
言葉は難しいですね。
私の言葉だって、表面だけを見れば矛盾が多いですよ。
特に霊的な世界では、「あちらを立てればこちらが立たず」 的な要素が多いですね。

言われたら隅々まで言い返す粘着性があるので、その一人相撲の先走りにのめされるのも不快でほとんどの人が相手にしようとしない。人格の部分で乗り越えなければならない壁がある。神ながら、言挙げせず。



この人の経緯


私自身とんでもない苦しみを過去に味わってきた。「貴方は悪くないよ」 の言葉を慰めにしてきた。しかし、その言葉で一時的に楽になっても、真に問題は解決しなかった。自分が悪くないのだから、相手が全て悪い。・・そこから自分の痛みが復讐心に転化されてしまった。私の修行は、その苦悶との闘いから始まったと言えます。


穢れるかどうかは人性。また懊悩を誇ってもならない。余計な財産になる。
さて問題なのはイントラネットでの彼を見たら「君は悪くないよ」と言ってくれるのかどうかだ。そしてこれから彼の数々の内相の真実を垣間見るオブザーバーは果たして「君は悪くないよ」と言えるかな。それでも言えるのはただの文盲か、かの内相が自己の内相とコンフリクトしない派閥か、本当におおらかな人間のうちのどれか。




井の頭公園 (東京) は魔物が多い。成仏していない霊も多い。殺人次元の遺体置き場にされたことがあるようだ。しかし、真気や神気も強い。能力者の間でも、かなり意見が分かれている。その人の魂の性質や役割、または過去世からの因縁にも関わるからだろう。ところが、能力者にもレベルがあり、ある次元を超えた人達は、「井の頭公園は一筋縄ではいかない」 と述べることが多かった。私が行くと、武士の霊によく取り囲まれます。その一方で、大地から援助エネルギーも入ってきますね。


ふーん


霊的なもので、例外的なものは非常に重要でしょう。非常に複雑で流動的な面がありますから、何をもって「例外」と呼ぶのか難しい面もあります。ある種の体系や環境下においては、「当たり前」のこととして認識される訳ですから。除霊だけなら、ある程度のパワーがあれば成功する。しかし、「浄霊」 も視野に入れる必要があるでしょう。「これこれ、こういう理屈だから、貴方の苦しみは大したことがない」 という定型文の説得が通じないケースが非常に多い。もはや「例外」ではなく、常識的な現象ですね(自分を模範とするレトリック)。我々、人間に当てはめればよく分かります。理屈が正しくて、納得できても、腹の底・感情レベルで真に納得できるかと言えば、なかなか満了しない。
末期癌でのた打ち回ってる人には、説教など慰めにもならない。鎮痛剤の方が役に立つ。当たり前でしょう。苦しんでる霊も同じことです。


神の世界や仏の境地を知らない人は浄霊するにもパワーゲームに頼りがちだ。天狗道に陥れば天邪鬼をほどくことができないんだろう。神や仏の力にすら懐疑的で、なかなかそこに向かえない。それだけじゃ不安だからだ。
「恨み・憎しみの感情が強い霊は、理性的な説得が通用しないことも多い。理屈が正しくて、納得できても、腹の底・感情レベルで真に納得できるかと言えば、なかなか満了しない。」― とはいえ自分自身悪霊化した経験がありその境遇を理解できたとしても、反対に神の世界や仏の境地を知らなければただ自分の意念力や理解力に傾倒し、それにより縛り付けるがせいぜいのところ。霊性低いうちは何をしても悪あがきにしかならない。
不毛霊の苦しみを理解しても、自分はそれを経験したと積み立てるのではなくその泥沼に水を注ぐ運動をしたい。忘れる。未練があったり鼻に掛けているうちは同類のものどもと引力が生じ、いつまでも足を引っ張り合うことになる。だから余計な財産はいらない。




また別の霊能者

皆さんは俺の批判で盛り上がっていますね、いいことです、俺も今日は気分がいいです、某有名な女のタレントさんから感謝の手紙が来ていました、この一年間で急に売れてきましたのも、俺が裏で彼女の為に祈願しているからです、名前は言えませんが皆さんのよく知っている子です、彼女の為に今後も祈願を続けます、俺は皆さんの手の届かないような人でも、簡単に友人に成れます。実力がすべてです。

統合失調症の人間に、妄想を逞しくさせる言葉というのは厳禁です。からかうより、病院にかかることを薦める方が、人としての道だと思います。SAIさんの話も楽しいでしょうが、皆さんは一度冷静な目線で彼を説得するアプローチを取ってみて下さい。
統合失調症は発病後、2ヶ月が早期治療に最適な期間です。残念ながらSAIさんは既に慢性期に移行していますが、時間を掛ければ完癒は可能です。これ以上、罹患者をいじり回して、一人の人生を破壊しない事を切に望みます。


俺を無理やり病気にでもしないと、君は俺に勝てないのか?霊能者としては天性の才能がないと俺には勝てないぞ、普段から毎日100個ぐらいの霊魂が見えてないと本物とは言えないです、無理やり難癖を付けてくる君みたいな人を見ていると、逆に可哀想に思えてきます、人間は生まれ持った才能が無いことは哀れなもんですね。

俺の能力を明確に提示しない限りキチガイ扱いか?それなら実力を示してあげるよ、ネット霊視という言葉は聞いたことありますか?例えば君のカキコから君の全てを読み取り、ここで公表するということです、一応霊視は完了していつでもアップできるようにはしてある。ここで公表するかどうかは君の今後の態度次第だ、君のこの性癖はみんなひくと思うよ。俺を騙ってもメリットはないだろう?愉快犯か?

「たとえ他人から不正を受けても、不正をもって報いてはならない」(ソクラテス)

今夜12時までに霊視希望者はここに集ってください、片っ端から経験してみるといい、知らない世界を舐めすぎ。
週末に福岡と長崎に霊視に行ってきます。霊視は2時間もあればおわりますからほとんど遊びです。それでもみんなの1ヶ月の給料分くらい稼げます。才能がない人間が何人集まっても無駄です。

この人はわりとかわいいオーラが発されているけど,子どもなんだな。
対極的だなぁ。
オーディオでも、裸特性重視すれば解像度が得られない。モデルチェンジにて物理特性が上がれば、たいてい色気がなくなっている。物質的な次元は概してあちらを立てればこちらが立たず。




こらえ性のない人は霊能を扱ってはならない。自ずと諍いに巻き込まれ、そのうちに魔につかれてあぼーんだから。勝ち/負けの観点に限っていえば、使った方が負け。論争では、言ったもん負け。たとえ勝っていたとしてもそれを言ってしまった時点で負けである。たとえ悟っていても、自分は悟っているとは言わない。
悪く言われても虐げられても、それを肥やしにできなければ高みに至ることはない。自分への批判や陰謀に腐ってしまう。恐れがあればそれは現実化する。苦しみを、喜びと同じように求めることができれば変な恐れはなくなる。
その境地に一度でも到達した人なら理想論だとは思わないだろう。



無菌室に育まれたサタニズム

夜が明けた
望んだ朝
何も無い日々
そうこれが・・・

そう、昔、神が造った命には性別も無く寿命も無かった
それは人ではないけれど人より優れていた
でもあまりにも優れていたために自分以外のものを信じようとしなかった
自分以外を敵と思い込むのに時間はかからなかった
神さえも信じられなかった
神はその失敗を認め、すべてを破棄したはずだった。。。。

そして人が生まれた
原型は同じものであるが、人には性別があり寿命がある
一人では生きられなくした
せめて男と女だけでも、親と子の間だけでも絆を作ろうとした
それでも人は人を信じられなかったが
不完全な自分だけで生きられるほど優れた命ではなかった。。。。

神はたいそうこの人という生き物を愛した
失敗より生まれたこの生き物は何より素晴らしかった
神が考えなくてはならないすべての事象を忘れさせてくれた
それは神の領域にはまだ及ばないが、いつか神を超える素質を見せてくれた
個体ひとつひとつがまるで細胞のように群をなしてひとつの大きな生命を形成していった
神はその大きさに感動した

細胞が一つ一つ死んで生まれ変わるのは小さな不幸で喜びかもしれない
だがそれは必然の死で必然の生でしかないと神は言った
大きな生命が死なないようにするためには癌細胞は切り取らないといけないし
生まれてこないようにしなければならない
だけど神の意思どおりに人は育たなかった人間は生まれなかった

あらゆる形に彼らは姿を変え人を惑わす
人に神を殺させるために
そのためにはまだまだ人は力が足りない
ずっと闇に身を潜めチャンスを待っている
だがそんなことはどうでもいい

ユリカが持つべき器こそ彼らの器を利用させてもらう
そして私も・・・・・・・

魔女エウレカと天使ユリカを自由にし
そして私が王となる

私の望みはただひとつ
すべてを手に入れてから
すべてを無に帰す
神も彼らも関係ない

呪いレベルの霊が帰結するところ。

「私は人間の兄とも言えるべき存在
それの存在が神の目の届かないところにあることに気がついた
神さえも恐れぬ
あらゆる力を持ち
あらゆる知識を持つ
万能な彼らを神は不完全だと呼び廃棄した
無能な人間を神は完成品だと賞賛し自由を与えた
彼らは神が憎い
だが人に嫉妬はしていない
人は神に踊らされてるだけで
なにより彼らより小さい」

世の中に恨みやコンプレックスを抱いているほどにこの手の霊に浸かりやすい。浅はかな物言いにも知能の壊疽がうかがい知れるが、自己の霊性が一致するところがそこであることに気づかない姿に人間は無限の愚かさを持つことを自ら体現している。存在は自分の次元しか見えないから人を見て我が振りなおすより仕方ないが。
まぁこの子は純粋なもんだけど、団体になるとこんな単純な形には留まらず、一生をかけても読みきれないほどの分量にもなる。洗脳というのはだから結果論だ。洗脳の意思などない。洗脳になっていることもわかってない。そんな彼らは自身がまるで高次脳機能障害。一体誰に対して王となりたいのか…。それが原点につながるが、『病識欠落』と『社会的行動障害』があるので恨みとか怖れの原因を現実的に究明しようとはしない。
恨み憎しみの元凶がなくならない限りその対象はつぎつぎに転嫁されていく。つぎにつぎに対象は高速移動し、その歩みを糸で結ぶと、蜘蛛の巣になる。テリトリーは刻々と元凶を囲んでゆく。次第に元凶はかすんでゆく。だからそれの存在が神の目の届かないところにあることに気がつき、ずっと闇に身を潜めチャンスを待っているという結論に至るのだろう。



「やべー今日下痢になる予感」
と言うときはもう既に下痢は始まっている。
「ぜってー風邪ひいた、風邪ひいた自信がある」
と言うときにも既に病原菌は脳内体内に増殖しつつある。
それと同じく、可能性の終わっている人間は既にそれを感じ始めている。
でもその可能性とは、死ぬまですべてを見ているもののはずだから、可能性が復帰してくるという可能性は彼らの中にはないわけで、考えると非常に厳しいものだ。その厳しい現実から目を背けるために、また、運命を共同にするために他者に向けられる。
「君に可能性はないんだよ その一生は終わってるんだ」
でもなぜか下痢の場合は「おまえはもう下痢なんだよ!!」とは言わない。
下痢の方がはるかに厳しい現実であるはずなのに。
それは厳しすぎて余計なこと考える余裕がないほどだから。また、一過性のものだから。
将来の可能性の場合は観念の問題でこそあれ、永続的なものだから。
考えると、下痢ですら治るのだから、どんな病気でも治る可能性はある。病人には常に余裕がないのだが。特に精神の病気の場合、観念それ自体が覆われているのだから可能性を0にする以外に結論は出ないのだろうが。




霊能力か何かはわからないが、去年に樹海で死のうと適当に歩き、草やコケが生い茂る、地べたに寝転がった。一日目の夜は恐かったが二日目になると、自分がそのまま土に還って行く夢を見始めた。まずは動物が適当に自分の死体をくって、腐りかけになったら植物の種がおちてきて自分の死体を養分に木になる夢を見始めた。正確には覚えてないが飲まず食わずで、それが四日か一週間ぐらい経った時にはボッーとして上の夢をずっとみてた。そんで、そんな夢をみながら自分は何かしてきたか?って問いがポツリと浮かんで「嗚呼、何にもしてない…おわった」って思いつつ、意識が消えた。そんで目覚めたら、病院のベットだった……何でも道路に倒れていたらしい。

「何にもしてない」 とは重要な気付きかも知れません。
魂レベルに意識を飛ばすと、確かにほとんどの人間は何もやっていないことに気付きます。
カルマは積んでますけどね。(←高笑いが聞こえる)

レスの捉え方がポイント。
敵に落とし穴を設けたい奴がいるようだ。
その中は迷い地獄だ。
何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛をあたえることを望んではならない。『スッタニパータ』

傷は傷のままなら、怨念を生み出すだけです。そこから生まれる優しさや奉仕は総て偽物。善人の仮面を被って、霊的次元では自他の首を絞める。傷に向き合い、真に癒せば、それが光や愛になる。
理屈で無理やり今までの選択を正当化するのも自由です。それが世の中の現実でもあります。光を穢したくなる。変な例えですが、清らかで汚れを知らない少女を見ると、思わず性欲を掻き立てられてしまう男がいますね。結局、自分自身を傷付けたいだけでしょうね。


こいつが一番理屈で解決しているな。
そして相変わらず次元の低いものについてしか言及しない。人間嫌いで人間をそんなに次元の低いものとしていては自分が生かされているということもわからないだろう。社会的に協調性の無い人間。これが30代-ならその人生はほとんど終了してるようなものだな。まぁ守護霊や指導霊も自分の霊性に応対したものがくるもので、それより霊性の低い人は助けることができるが。

心霊や宗教関係の本は、出来るだけ処分すべきだと思います (パソコン内の心霊関係データも)。また心霊以外でも、不用品はどんどん処分がベスト。「これは捨てたくない」 と愛着している物ほど、悪影響がある可能性が高いです。捨てた後は後悔するかも知れませんが、また新しい視点で別の物を入手すれば良いのです。

そういえば神棚に祀るものに対して薀蓄述べるあほがいたな。
象徴するものに自分自身が威力を感じられないと意味がないという言い分はわかるが、そいつはナイフを飾っているらしい。矛ではなくナイフって… いじめられっ子がキレてカッターナイフをふりかざすみたいだね。


心霊写真を入れたCD-Rを持ってるのですが、やはり処分した方がいいのでしょうか?
一枚は、神社の神主さんに見て貰ったんですが、その人が言うには大丈夫だと言っていました。その神主さんが、この写真を見て真っ先に言った言葉が、愛がないと言われました。愛がないと言うのは、彼女は愛情を受けて育ってないような事を言いました。以前の母親の姿や、彼女から昔の事を色々聞いていて確かにと思うふしはありました。今は色々な意味で、自分の娘を凄い大切にしているように思います。彼女は以前大切に犬を飼っていました。普通では考えられない程溺愛していました。彼女に会って1年目は吠えなかった犬が、ある日を境に凄い噛み付くかの勢いで飛び掛ってくるようになりました。俺が見る限り、下の写真はその犬の様な気がします。その日写真を撮った日は凄い喧嘩した事を覚えています。彼女とは出会わない方がお互いのため良かったのかもしれません。喧嘩ばかりでした・・・ 今思うと、彼女への愛と言うより、嫉妬と心配する気持ちの方が強かったように思います・・


彼女に対する過剰な執着は、結局、彼女にマイナスの影響を与えてしまいます。他者を過剰に心配するのは、自分自身の問題から逃げるためではありませんか?でも自分が幸せではないのに、他者を幸せに出来るはずがないですよね。
実はこれ、私自身のテーマでもあります。自分が幸せで充実してる時は、他者に対する加持祈祷の能力もパワーアップしました。逆の時は、大幅にダウンしました。

自分の経験から言うと、自分が幸福になってしまうとどうも感受性が鈍くなってしまいます・・・
他者に対しての想像力が鈍くなるというか・・・ 自分勝手な性格なのでしょうか。
自分の経験で言うと一番感受性があるときというのは、すごく傷ついた後に癒された瞬間。そういう時はいろんなものに対して響くように感じます。私はまだ人を幸せにするほどの力がないので、自分の他人に対する感情移入が本物になれば、そういう力も自然と出てくるという考えでいます。
でも、感情移入できるのが自分がショック状態にあるとき。その瞬間はパワーが足りない。自分が癒されきってパワーが出てくると人に対しての感情移入がおろそかになる。
こういったことは、日々の心がけでしょうか?それともまだ自分の悩んだり苦しんだりする経験が不足してるのでしょうか・・・?


逆です。悩んだり苦しんだりする経験が不足してるのではありません。
幸せの経験が不足しているのです。
プラス波動に満たされている時は、マイナス波動に同調し難くなります。故に、鈍感になることもあるでしょう。でもそれは、決して冷たい性格になったわけではありません。多くの人はマイナス思考や業で汚れていますから、エネルギー的にマイナス方向に引き合ってしまうのです。マイナスの引き合い・ 腐れ縁に付き合ってくれる人が 「暖かい人」 であり 「優しい人」 だと思い込んでしまうのです。もはや救いようがないですね。
そんな人間は放置するのがベストですが、リアルではそれが無理な場合が多いでしょう。付き合うなら上辺だけ上手く取り繕い、決して心の奥まで見せないことです。寂しい話ですが、もはやそこまでやらないと、心を守れない時代になっているのです。それだけマイナス波動、霊障に満ち溢れた世の中なのです。
愛と同情は異なります。一見、優しくて親切な人ほど、無意識下の霊的レベルでは、強烈なマイナスエネルギーを送り込んで来るケースが多いのです。なるべく、やりたいことを自由にやって生きてゆきましょう。多少、ワガママちゃんに見られてしまう生き方の方が、魂の透明度をアップできる可能性があります。
「プラス波動に満たされている時は、マイナス波動に同調し難くなります」 と書きましたが、物事には裏側もあることに留意してください。我々は宿業に犯されており、魂を傷付ける苦しみが快感になっているのです(※正常な感覚が麻痺している)。そんな世の中ですから、一人一人が真の幸福を目指した時に、必ず邪魔されます。つまり、プラス波動がマイナスを引き寄せてしまう側面もあるのです。それは一見、善人の仮面を被ってやって来ます。表面的には、仲良く助け合う前向きな人間関係のように見えても、霊的次元では足を引っ張っているわけです(※無自覚な祟り・ 呪詛)。故に結界強化法や浄化法は、総ての人に必要かと思います。宇宙レベルでの霊的変動が加速している時代ですから、幸福を邪魔する攻撃・ 罠が、ますます巧妙になるでしょう。「本当の幸福」 と 「頭で考えた幸福」 は全く異なります。真の幸福は、魂に立脚しなければならない。魂の方向性を理解し、進むためには、内面を見つめる瞑想が必要だと思います。




どんなに結界を張り巡らせようが悪因悪果の宿業から逃れることはできない。
それは罠でも攻撃でもない。

もともと比重の問題ではないけれど、神々より人間自身の力によるところのほうが大きいといってる人は悪霊や負の波動云々より環境ホルモンによるところのほうが恐ろしいとは思わないのかな。そういうバランス感覚が弱いからカタワな論理に転倒していく。
地球から公害がなくなるまで待てないから人間自身が公害に耐えられるように強くならないといけないなんてのも馬鹿げてる。
公害のほうがわるいのに。
空気が汚れているからといって空気清浄機を使うというのもナンセンス(使ってるけど) その空気清浄機を作るためにも公害は出てるし。
べつに公害に負けてもいい(そんな観念こそ廃棄物)。地球の自浄作用が追いつくことを期待できてないからいびつな方法論に凝り固まっていくんだな。自分も気づかぬうちに公害には加担しているけれど何事も自然な姿を保っていてほしいと思うのは人のこころのまことなりけりよ

一番健康的なのは囚われのないこと




シルバーバーチの霊訓

――大霊というのは「誰」なのでしょうか「何」なのでしょうか。あらゆるものに内在する愛、愛の精神ないしは情でしょうか。
 大霊とは宇宙の自然法則です。全生命――物質界のものと霊界のもの全て――の背後の創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡知です。それが全宇宙のすみずみまで行きわたっているのです。人間の知り得た限りの小さなものであろうと、まだ物質界には明かされていないものであろうと、同じです。あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。大霊は大霊です、生命です、愛です、全てです。従僕に過ぎないわれわれが一体どうして主人を表現できましょう?ちっぽけな概念しか抱けないわれわれが、どうして広大無辺の存在を表現できましょう?
「死後の世界」についての箇所
 私たちがお届けする霊の世界からの贈り物を十分に理解なされば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるのは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことが分かっていただけるはずです。いったい誰が、ただの酔狂で、素晴らしい光の世界からこの地上界へ降りて参りましょう。あなた方はまだ霊の世界の本当の素晴らしさを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも一瞬の間に行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことに幾らでも専念できる、お金の心配がない……こうした世界は地上には譬えるものがないのです。その楽しさは、あなた方はまだ一度も味わったことがありません。肉体に閉じこめられた者には、美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色彩、景色、樹木、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがどれほど美しいか、あなた方はご存じない。それでいてなお、死を恐れます。
金銭の心配がありません。生存競争というものがありません。弱者がいじめられることもありません。霊界での強者とは、弱者に手を差し伸べる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。教典もありません。あるのは大霊の摂理だけです。それが全てです。地球圏へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私も地上界へ戻るのは気が進まないのです。なのに、こうして戻ってくるのは、そう約束したからであり、地上界の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくださるあなた方の私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ今その地上で生きていることこそ悲劇といっても良いくらいです。大霊の庭園が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態となっていることこそ悲劇です。
「シルバーバーチ」とは
 シルバーバーチというのは霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、1920年から60年間にわたって霊的教訓を語り続けてきた古代霊の仮の名で、紀元前3000年頃、つまりイエス・キリストより1000年も前に地上で生活したということ以外、地上時代の国籍も姓名も地位も不明のままで終わった。せめて姓名だけでも教えてくれるよう何度かお願いしたが、そのつど 「それを知ってどうしようというのですか。人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくを思われるのでしょうが、それは非常にタチの悪い錯覚です。前世で私が王様であろうと召使いであろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよろしい。私の述べていることが成るほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなバカな、と思われたら、どうぞ拒否してください。それでいいのです」


シルバーバーチは人間的な訴えが多くて醒めるところがある。シルバーバーチではなく、バーバネルによるところかもしれない。意識は意識でも蒸溜の仕方により表現が変わる。



カルマやら輪廻の枠組みから脱するとオーラも無くなるのか

そこまで到達しなくても、光の次元は超越できるようです。故に、「まだまだ上の次元が存在する」 と書いたのです。既に書いたかな? 師匠を介して、一時的にその世界を垣間見ることを許されたのですよ。簡単に言えば、オーラを超えた世界にも、まだまだノイズが存在し、それを越えなければならないと・・・。(それは自分自身のノイズ)
尚、肉体を持った人間が、カルマの枠組みから完全に脱することは不可能だと思います。カルマの本来の意味は、「行為」 です。生きている限り、必ずカルマは積みますし、生老病死からも逃げられない。ただし、無自覚に流されてしまうことは無くなる。肉体の束縛、時間と空間に縛られた存在としての 「枠」 は残りますが、その枠内での選択は自由自在になるということです。
とはいえ、今の私はそれを体現していません。垣間見た世界の体験談と、師伝の法義に基づいて説明しております。



成仏とは

安らかに旅立ち、霊界で幸せに暮らしたとしても、「成仏」 とは呼びません。仏教的には・・・。成仏とは、「仏に成る」 と書きます。あらゆる業から解き放たれ、真智を悟り、輪廻から解脱した存在を差します。
でも霊界は、輪廻が基盤の世界です。たとえ天国と言われる世界でも、輪廻の法則からは逃れられない。その意味で、世間一般で言われる 「成仏」 とは全然異なるものでしょう。仏教的には、天国も地獄も同じようなものです。ただし私は悟っていないので、体験的に書けない部分もあります。


語行清浄がまるでできていないという心象。人をまず暗くさせる。あるいはイライラさせる。しかしこれは盲語ではないので、単に彼の陰気臭さが乗り移るからかな。こいつは修羅に落ちるな。




霊性の高いものほど優しさに満ちている傾向にある。
お釈迦様の優しさは厳しさの中にある。風邪や怪我を我慢するのは動物としてのものだが精神的な事柄は優しさによる。批判を受ければ言い返したいことはたくさん産まれるが、うまくジンテーゼを導くのは一時的には厳しい。
また霊性の低い奴はそれができれば成果にするがお釈迦様の場合は違う。魂の安らぎに反するから。それに俗人とは違い特にそれを思わない。

お釈迦様には偉大な優しさがある。
お釈迦様は甘くない。




次元の高くない求道者B

永遠の命の世界を知る
◆この身は泡沫のごとしと見よ
―世の中は泡沫のごとしと見よ、世の中はかげろうのごとしと見よ―この身は泡沫のごとしと見よ、この身はかげろうのごとしと見よ―(ブッダ)
―世と世の欲とは過ぎ去る―あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない―(新約聖書)
◆永遠の命の自分
― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ 〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―(ブッダ)
― 盲人は見え、足なえは歩き、耳しいは聞こえ、病に苦しむ多くの人々を神のわざでいやされたイエス―
―いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ―(イエス)
この世のこと、自分の思いわずらい、自身のことさえ忘れて、慈悲深い神とひとつの思いで喜んでいる。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安のもと、世はすでに裁かれていると知る。その神を愛する人は、永遠の自分を知っている。世より愛し、この世で永遠の自分と生きること。
◆悪しき者の配下にある
―生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない―世間は妄執に導かれ、妄執という一つのものに一切のものが従属した―(ブッダ)
―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている―(新約聖書)

偶像礼拝により、今のこのような自身の生存状態を希望してはいけない。自身を殺すことも悪からで、その悪を行ったならば、決して善いところに生まれることはできない。
◆世とこのような自身より永遠の自分を愛する
―悪魔の征服者です〜みずから彼岸に渡りおわり〜あなたは善悪の両者に汚されません―(ブッダ)
―天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである―(イエス)
―もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい―(イエス)
―肉による主人に従いなさい〜人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい〜僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。主人たる者よ、僕たちに対して、同様にしなさい―(新約聖書)
永遠の自分は自己の善悪に囚われず、自分の考えが正しいとして他人を自分の考えどおりのものとしてはならない。そのことに恐れを感じる者となること。また、人の考えに従って永遠に至ることはない。むしろ自身の意向に適わないことでも、人の考えや求めるものを尊重してあげて、その人に仕えてあげるなら肉ではなく永遠によって生きているのである。―たといどこにあっても他人を軽んじてはならない―(ブッダ)
永遠は慈悲深く、寛容であり、自分の考えを正しいとすることもないから人を尊重し、そのことに対して喜びを覚える。

◆永遠の自分(霊)はまともな行いをする
○平和と言いながら、人は己が考えた行為を人に押し付ける。自らの思いに適った人間を望んで平和を達成しようと望んでいるのである。しかし、自分の善悪を人に押し付けず、他人の意向を尊重する人、他人を軽んじない慈しみのこころづかいを忘れない人々は、平和を築いていく。
○偶像にくどくどと祈ったり、供え物をしたり、呪文のようなものを唱えて利益や功徳を求める。
しかし、他人の求めるものを尊重して肉による主人に仕えるような人々が増すならば、自ら人々にしてほしいことができたとしても、仕えてくれる。
―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は、昼夜に増大する。それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく―
―学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天が雨降らすごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ―
―愚劣な人が富みを得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく―(ブッダ)
 ― 一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ― 唯だ一つの自己に克ち、全てが幸せな世界におもむく人は、この世でも自己に囚われず人々を安穏にし、安楽にし、幸福にする行為をそれぞれの意思によって自ら行う。


素直なこころの在りように従って素直に生きることが大切かな。そうすれば自分らしく生きられる。ほんとうに自分らしく生きているのであれば、何者も介入できまい。
「自由自在」とは自分の由来と自分の在り方。自分がほんとうに正しい自分であるならば、何物にも動じなくなる。虎であろうと悪霊であろうと。構えが多いのは自分らしさに不備があるからなのである。
主観に逆らうのは肉。自意識という夾雑物。原理主義に陥るのはそういう人に多い。やたらと客観に陥る。超越願望が加速すれば失敗を恐れる生き方が極端化する。それは霊性の進化に逆行するスタンスになる。
同じような呪詛をくどくどと何年もの間なんの進展もなく続けるのなら、誰かに指導してもらったほうがいい。高談するほどの存在が、高談しえない存在に指導してもらうのだから、有意義なパラダイムシフトになることと思う。宗派の特徴


一切が幸せな世界は、人々の幸せのために生きようとする内なる力。人は自然に神を内に秘めている。人は誰かに親切にしたり、助けてあげたりして、或いは他人の思考を尊重してあげて、その人に対して親切にした、善いことをしたといって誇り高ぶらない。人々の幸せと、それを行ったことに対しての誇り高ぶりを捨て去ることは、世間一般の仕事という形で現れる。相手の意向を聞いて助けてあげた、自分がそのことに対して誇り高ぶりを捨て去るために、相手が納得する範囲で、相手から収益を得る。どちらかが一方的に有利になる取引を他人と継続的に行うことは、公平な神の世界に反する。ただ、その人が誇り高ぶらない範囲での人助け、親切にしてただ喜ぶのみの人がいれば、それも神の世界に近い。
一切が幸せな世界は、適度に自分も安楽でなければいけないだろう。奉仕ばかりで自分に過酷だけがあるなら、それは神と永遠の世界がその人にあるだろうか。
世間一般に認められることがやはり神の内にあり、世間一般に悪と認められることは神以外のことだろう。おおよそ平安なら神の内にあり、平安でないと言うなら、その人が身から悪を行わず平安に努めるべきである。


不明と同じにおいがする。不明はなかなか力があるし理論はしっかりしている。でもここで自分の道を表明してなんになるんだろうと思えてくる。チャクラ的な感応からか内的に攻撃的になることにも気がついた。あまりこういうものは撒き散らさないほうがいいと思う。人のためになってないから。(不明は年末にたまたま見かけたが、今となっては相当悔いているようで、そのぶん成長していることと思う。)
力を得はじめると人は「自分のお陰で」とか思いたくもなるものだけど、飽きるまで思わせておけばいい。「自分は選ばれた」も同じ。そういうのは飽きてから振り返り、自分の文章をみて恥じ入るもの。恥じ入るときには成長している。もうそんなのは超越している。
「神を知った」という所謂ペンテコステ現象は客観偏重の無神論によく訪れるもので、いつまでも「神を知った」状態では進んでない。それは本来あたりまえのようなもの。
倫理的に正しいことはどこの宗教でも言っている。この世界では、何を言っているかではなく誰が言っているかが問題。もっといけばどんな存在物が人格に作用をもたらしているか、そこにはどんな縁起があるか、どんな因果があるか。
あるレベルからは倫理を超える。言語上では判断のつけようがなくなる。言ってることは悪魔のようでも高位の神様だったり、一見聖人のように語ってみえても中身は簡素な屹度馬鹿なんてざらにある。
使わない機能は衰えていく。


その言葉に表現できない至福感を知った人は、「こんなに素晴らしい世界」があると知って人にわかってもらおうとするが、もともとそれは表現できない世界なので、誰にも伝わらない。
仏教はその境地を根本として教えた。それが多くの人々には無理だったので、現在の日本では、別のものが仏教となってしまっている。現代の仏教は、仏教ではない。無理なことは無理で、人々はいずれは知るだろうが、先に知った人は教えの全てを知ったことになるだろう。


祖霊信仰や葬式仏教は日本の風土が生み出したもの。インドは修行に適しており日本は四季折々の優しさだ。また霊性の深い解釈も日本人の感性ならではで言霊の作用も日本人が生活から発見したもの。原理主義は柔らかい日本人にはあまり適していない。
といっても僕は原理主義がわからないわけではない。ダキニ真天は人を助けすぎる。妖術も巧みだ。だからストレスフリーにポンポンと進んでいく。(きっちり見返りを求めてくるらしいが)。やがてその至った次元の悪魔に自身が囚われたときにそれが初めての経験なので対処のしようがなく堕ちていく。ダキニ真天を悪だったと評価することになる。
日本の神は人間の道を外れないようにする以外にはほとんど手助けをしない。だから修行者には稲荷は疎まれるのだろう。仏様はこちらが自分で気づくまで待っている。誘導するのみ。



内面の探究を忘れ、他者の動向を追っかけ、真相究明だの言ってても意味がない。自分の真実から目を背けて、外部の真実など見えるはずがない。真実の姿を装った幻影に騙されるのがオチだろう。インチキ霊能者に騙されるのも、こういうタイプに多かった。こういう人が、「被害者を助けたい」 と言っても、完全に嘘である。彼らは被害者のエネルギーを吸収しているだけ。奪ってるだけ。表面的な癒し効果と引き換えに・・・。もはや自分が加害者になってることに気付かない姿。

ほとんどの人は、楽な方向に走りたがる。被害者と加害者という単純な構造に当てはめる方が楽なのだ。たとえ本人が苦しく思ってても、本当の苦しみではない。たった一度でも、深い深い心の業に対峙した人間なら分かるだろう。本当の苦しみは、こんなものではない。真実を誤魔化すことで受ける魂のダメージは、筆舌に尽くしがたい。
2chでよく見かける 「必死だな」 という言葉を武器にすれば、様々な憶測ストーリーを簡単に作れるのだ。「必死になるからには、裏に意図があるはずだ」 という連想を正当化できるからである。実に安直で、楽な選択だと思う。
霊障がなかなか抜けない人は、やはり 「自分が呼び込んでること」 を知りたくないから、方法論や霊能者に走りたがる。依存する。外的なものが全てになってしまう。他者の追っかけ自体が悪いと言ってるのではない。ただ、何をするにも内面のエネルギーを意識化する必要がある。そこから逃げ、魂と霊を傷つけ、カルマを積むことを、何度繰り返せば気が済むのだろう・・・。死後に後悔するパターンを最も嫌がっていたのは、ご本人だろうに・・・。
人間とは、過去に決意したことを、何度も忘れる生き物なんだね。その決意に対して、神々は幾度もチャンスを与えてくれたのに、その都度粗末にしてしまう。

理想的な睡眠時間は三時間なのだと説く見事な駄本をコンビニで見たけど頭が馬鹿になると次第に見えなくなるんだなぁ。苦行をしているからあたかも有益なことをしているかのような達成感とともに…
現代仏教の簡単なやり方を否定して原始仏教の理論薀蓄に突き進む頭ばかりの駄目な連中もいるし。人は過激になるとこうも無駄に努力をしたがるもんなのかなぁ…言いたいことはわかるんだけど。(「稜々としている」といえば武士的だがただの根性悪。「ストイシズム」といえばイズムがありそうだがただ引き下がれなくなっただけ)

誰も真贋など見極めていない。見極めたと宣言してる者は、単に自分が積み上げてきた宗教的価値観に固執し、自分と異なる思想を偽物だと思い込んでるだけなのだ。私が見てきた限りでは・・・。
つまり「見極め」ではなく、「思い込み」に過ぎない。釈迦や古今東西の修行者は・・・たった一つの事象さえ、その真贋を見極めるのに、徹底した自己観照を下地にしていた。そこまで徹底しているからこそ、一瞬の内に判断できる事象が増えるのだ。
「他者に依存せず、自分の内なる神を信じて生きるべきだ」 と訴える人だって、その人自身は実行できているのだろうか?自分の真実から逃げるために、他者の追っかけをしている人は、決して内なる神を理解することは出来ない。総てが薄っぺらな言葉に堕ちてしまう。内なる神に対して、そんな嘘は通じない。貴方の嘘は、全て筒抜けである。

「君は本物霊能者と偽霊能者を見分けることが出来るか」 という質問された人もいました。私は既に霊能力を卒業してますし、巧妙に波動を偽装する能力者もいますから、かなり難しいです。この世界、結論が二転三転することがあります。

心はシンメトリカル。人間は対象を批評するつもりでいても、自分のことを表現しているに過ぎない。マイナスに向かう人はマイナス面を指摘する。暗い奴は「これを思い知れ」と云わんばかりに人の世界観を暗く染めたがる。「現実」を直視させるその形相に問題はないのか?。霊視には「そうであってほしい」という願望を投影することも、希望を見いだすこともあり、永久にはい上がれまいとする人もいる。本当に高邁なものなら小細工入れず堂々としてればいいけれど、自分が指摘されれば相手を呪い、強迫神経症の言葉を浴びせ返す者が多い。怒り方が暗い人とかの次元。共存経験の不足した犬はテリトリーの侵入に過敏に反応する。向こうで吠えれば気違って吠える。不淨霊が叫んでいるようにも見える。その輪廻から脱することはできないんだろうか。
「なにしろ、この私に対しても批判レスを入れる人だからねww この私は、「厳しい人達」 を求道の仲間にしてしまう癖があるようだww 日々、態度をコロコロ変えやがるww」と、いろいろなものを混合して疑心暗鬼に陥るのは自縄自縛というもの。我々農耕民族の曖昧さが崇高さだと知る瞬間でもある。


尚、これは、「霊視」 に依るものではありません。現在は霊能力を卒業してるので、滅多に見えません。

ということをよく付け加える。未熟なプライド。知識や霊能を誇る人はそれを得るまでの動機に問題があったことが多い。「自分は霊能があるわけではないからそういうのはよく知らない」という度量がなかったからどつぼに嵌ってしまう。自分は知っていても知らないと言う風体で生きるほうがいい。
人間は動機の通りのものしか産み出せない。よこしまな動機でいては励んでいるつもりでも年齢と共にすさんでゆく。そういう人間は事あるごとに汚れた精神を育み後退してゆく。成果ではなく動機、その大本になっている精神の様態こそがその人。生精進(正しい努力をすること)。低級な動機だったら踏み込まないほうがトータルとして得。

人の己れ(自分の学徳と実力)を知らざることを患へず、人(他人の賢・愚・能・不能)を知らざることを患ふ。『論語』



霊障について


表層意識で霊障を嫌がっていても、無意識のレベルで霊障を欲しがっていれば、なかなか解決しません。
結局、本人の意識の問題。
どんなに優れたテクニックを使っても、効果が出ないのは当たり前です。
でも、それを真に認識・ 理解するのは大変です。徹底的に心の奥を観察する必要があるし、認めたくないものを認める試練を通過せざるを得ない。そういう作業を嫌がってる人ほど、方法論に走りたがる傾向があります。「このテクニックは効果あるかな?」 の世界に夢中になっていれば、心の闇のドロドロした部分を直視しないで済む。それでは根本的な解決にならないのです。仮に効果が出ても、一時しのぎに過ぎません。
業的な面から解消しない限り、ある種の借金を作ってしまうのですよ。


悪霊の叫びを聞きすぎているんだろうか。自分自身が霊障だということに気づかない姿。


反対に無意識のレベルで神仏を求めていればそのご加護を得られる、ということにはならないんですか?
そういう人もいると思いますよ。
実際、信仰心など無くても、心がきれいで、オーラもキレイで、安らかに暮らしてる人がいますからね。ただし、無意識では希求してるのに、潜在意識や表層意識では強烈に拒否してる人も多いですよ。
この場合も加護をブロックすることになりますね。


最後の一行にルサンチが滲んでいる。
真相は、言葉の奥に有るものだな。

実は自分が呪われているような気がするのですが、簡単な判別方法はあるのでしょうか?心当たりとしては呪われている感じの人をかばったことがあり、その後自分の体調が悪くなる一方です。かばったというのはその人を見えにくくしたようなものだと思ってください。

人間なんて誰もが日常茶飯事に呪い合っているのですよ。それがメンタル体とスピリチュアル体のカルマ的法則です。相手を庇った行為が、真の愛に基づくものだったでしょうか?単なる同情だったのでしょうか?守り切る能力もないのに、無闇に守ろうとするのは、一見素晴らしい行為のように見えて、実は傲慢です。相手を見えにくくする以上、自分が表に立つことになる。泣き言は通用しない。狙われても当然であり、その覚悟も無い人が人を守るべきではないと思います。




不空成就仏
ご真言 おん あぼきゃ しつでい あ 

五大如来のひとつ。身のこなし方、振る舞い方、によって願いが成就する智慧、成所作智を授ける仏様です。不空とは空でない、充実したことを指します。(飛不動尊)



結界について


邪気対策は様々です。法力がなければ、九字法ひとつとっても、送り手に 「返す」 ことは不可能だし、危険です。ただし、ストップさせることは可能ですね。気感を鍛えてる人は体感できると思います

おいおい、邪気魔物に九字はダメだろ。
十字秘法ならまだわかるが。


使えますよ。
というか、貴方は、貴方の体系の範囲内だけで判断しているようですね。
一言で九字切といっても、天台、真言、日蓮、道教、神道など、様々な体系で行なわれています。
私はどの体系にも属していません。エッセンスは取り入れていますが、原型は留めていません。それは私の師匠が、プロの僧侶でありながら、還俗して、独自の境地に至った人だからです。
「九」 には、陽極まれり、という意味があり、陰気をエネルギー源とする魔物や邪気を伏します。九字切法には最初からそういう意味が存在するわけです。
マイナスエネルギーにも、質と次元の違いがあります。
「邪気」 と言う場合、通常はエーテル体次元のマイナスエネルギーを差し、同じエーテル次元を主体に練磨する気功でも邪気落としは重要です。
エーテル次元は、質的にはかなり粗雑で、低い次元。故に五気五行の法則も、大気圏外では通用しません。この次元のマイナスに対処するのに、大掛かりな秘法に頼るようでは駄目ですね (十字秘法は簡単ですが)。
たかが邪気ですよ。
早九字や気功、イメージ法だけで落とせるぐらいの集中力・ 生気・ 意念力を持っていなければ、お話になりません。
私の知人の修験者は、もっと高次元で手強い魔物レベルにも、早九字だけで対処する時もあるそうです。 もちろん護摩壇を組んでの本格的な修法も執り行いますが・・・。修験道自体、山の中を激しく移動しますから、簡単に速やかに執り行える修法が重要なわけです。

言われたら何倍にもして言い返さずにはおれないのに「たかだか邪気でしょ?」と言っている。内的な矛盾点には気づきにくい体質なのかな。人間は主にこの手の補強で我執に陥っていく。各々の事物の関連性は薄く、ニューロン的つながりは適当なもののようだけど思考のプロセスを見ると単に脆い自我の補修作業のようだ。人の心に響かないのは演技性だからだろうな。しかもテクニックがどうこう言うわりにはさまざまなことをガリベンしている。どうせ続いてはおらず口ばかりだろう。




相性・価値観の合う人と結婚するめぐり合わせはどうすればいいか


価値観が同じ人を結婚相手にすることが、必ずしも成長のためになるかどうか、私は疑問です。たとえ価値観が同じでも、喧嘩してる時は、総てぶち壊しになるでしょう? 豚肉や大根の切り方ひとつにも不満を覚えるようになる。
もちろん、霊魂レベルで相性が良い人は存在しますよ。価値観は別にして・・・。でも、魂の方向性を邪魔するカルマがあります。つまり、相性の良さが原因で、トラブルの多い夫婦関係になってしまう可能性もあるわけです。良くも悪くも、「縁」 がある人と出会うのだから、自分を変えることで良縁に恵まれると思います。
人は皆、違うのです。
違う個性、価値観、人格があり、そういう人達と交流することで、多くの気付きが得られる。たとえ熱愛中の男女でも、同じ夢を見ることは出来ません。「同じ夢を見ているのね」 というロマンチックな幻想に浸ることは可能ですけどね。もちろん生活を共にする場合は、価値観が一緒の方が精神的に安心できます。物理面・ 環境面でも理想的でしょう。でも、同じ価値観を求める動機が、真に前向きなものなのか?それとも、何かから逃げるためなのか? 真に前向きならばOKですが、あなたからはその覚悟が感じられない。
心の奥の無意識領域に閉じ込められているマイナス因子を知るのは、容易なことではありません。「私はあるがままの自分を愛しています」と唱えながら、心や感情の微妙な動き、浮上する思いに意識を向けてください。この言葉は一生役立ちます。自分を知り、カルマを浄化する上で、大変な助けになります。「自己愛を拒否する本音」 に気付くことが、第一歩になります。

模切り型な部分は悪くないんだけど「自己愛を拒否する本音」には参った。鬱病や心身症にでも追い込まれてるんだろうか。講釈垂れる前に19世紀のフランス文学でも読んだほうがいい。



祈りについて


単なる祈りでもエネルギーは発生します。まして真摯な祈りなら、霊的な存在が動くこともあります。しかし一般の人が普通に連想する「祈り」を超えた領域に踏み込んでしまうこともあります。
既に祈ってる人々へのメッセージ。
「祈った後は、そのことをすぐに忘れること。意識のエネルギーを全く別の世界に向けること」
邪気の影響力を避けるためにも必要です。
思い出した時に、また祈ればいい。

供養物は食べてもいいか

エネルギー交換法則というか、お供え物には先祖の邪気が入りやすいです。
周囲の雑霊が気を食い尽くしているケースもあります。
そういう場合、供物の味が極端に落ちている筈であり、無理に食べると体調を崩したり、霊障が出ます。
しかし、美味しく感じるなら、あまり気にしなくても良いと思います。私はね。

優れた指導者はスマートにその人のためになることしか言わない。しかし自身がルサンチを克服できていない人はルサンチを煽り、迷いの思想に溺れているうちは人に迷いを与える。
すんなり「祈ればいいよ」とか「食べてもいいよ」とむこうの慣性に任せる襟懐がない。悪い経験の多い人にとっては仕方がないというのもあるけれど、浮かび上がる知識や可能性のすべてを出さなければ気がすまないとか批判への身構えからくるものだとしたら、このように説明されるクライアントは哀れだ。

高校倫理 『行き過ぎた相対主義



自分の主張は、自分の体験が総てのベースになっています。私は師匠の教えも信じていません。疑うこともしない。「信じる・疑う」 ではなく、チャクラやエネルギー体の次元で感覚的に把握することからスタートします。理論云々は、単なる方便ですね。メソッドも同じ。言葉は言葉であり、真実そのものではない。真実の表現形態として言葉の力を借りるわけですから、「虫」と「虫を表わす言葉」は本来全く異なります。無理やり言葉に置き換えるのだから、総ては方便になってしまう。宗教も同じだと思いますよ。説得力云々は、本当はどうでも良いことで、言葉自体を自分に反射させ、何を感じるかが私の修行法だね。アホの言葉も貪欲に取り入れる。もちろん聖者の言葉も取り入れる。今の世の中見ても、真に説得力を感じる事象は本当に少ない。波動まで含めれば・・・。でも、これじゃあ、どうにもならないから、役に立つ形にして消化する方法を思いついた。
結局、自分の反映。
真実も嘘も自分が決めていることに気付く。徐々に・・・。
どんなにプラスのものでも、別の側面・基準で見れば、簡単にマイナスになる。


なにかにつけてそれが出てくる。それに縛り付け、その中に取り込もうとする。いつもそれを掲げる。一日何時間も。
それは始めにあったしこりだろうか。年輪によるものだろうか。妙なにおいがする。大学教授ではなく高校教師、小中学校の先生ではなく高校の先生を見ているみたいだ。僕もそのうちああいう風になってしまうのかなぁ… という、あれがある。
食傷気味だな・・こういうの

霊的な世界は複雑怪奇です。霊能者だった頃に実感しました。我々の物質世界でも二重三重の情報戦争・ 撹乱戦を見かけますが、霊的世界ではそれ以上でしたね。素晴らしい神気だと感じたものが、とんでもない邪気だったこともあるし、その逆のパターンもありました。正常な感覚をマヒさせる存在が、私の内部に侵入していた時もありますし、結論が二転三転してしまいます。大どんでん返しもありました。
だから真贋を見極めるのは難しい。
特に精神世界の教えは、人の心・生命の本質・宇宙の真理など、あらゆる存在と事象の根底に関わるため、そう簡単には分からない。人の心を扱う以上、心の傷やカルマを見抜き、正確に理解する能力が求められる。


またトーンやアルゴリズムにおいてはモデルチェンジを重ねるごとにその普遍性が「無個性を強調した強烈な個性」となって感じられるようになってきたB社のスピーカーを連想する。薄すぎず厚すぎず、大きい楽音は大きく小さい楽音は小さく、あらゆるソースに対応でき、温度感・湿度感もニュートラルで奥行きも解像力もある。それでいてわりと疲れない。そんな普遍性を求めて理詰めで開発された割には「可も不可もなく」というようなもので、魅力的な面も出さない=味気ないものという印象。人間の浅知恵程度では、ミニチュアのようなものから現実的なものを引き出すことは困難なことだ。霊媒師とは音楽ではなく純粋に再生機の側だ、そしてその音楽に対して自分は演奏者ではなく批評家の立場だ!といわれればそのとおりだけど、クライアントをその狭いコンテナの中に押し込めてはいけない。もっとレンジを飛躍させるフィールドが残されているだろうと、傍から見ていると思うね。まぁ霊媒なんてカリスマったものを目標とはしていない自分とは立場が異なるので、あらゆる経験や知識についてはありがたいものかな。



霊的能力を鍛えるには身体を鍛えた方が早い。発達の仕方が自然。精神力ばかりを重んじる奴は身体が耐え切れず、歪む。骨格がない。
前田智徳を見ると感動する。
スポーツをしている人にあまり不浄な人間はいない。根性が腐ってない。
深層レベルの意識においては一概にはそうとも言えませんよ〜
それをああ言えば上裕というのだ。腐れた定義を施すやつは、あちらの世界にはいない。新興宗教の霊性の低さを見ればどちらのほうにしっかりした守護がつくか、わかるね。自分はこんなに宗教を勉強してきた、自分は厚く信仰している、修行もして来た。でも簡単にはいかなかったから霊的な世界は複雑で多元的なんだろう。霊格をあげたければスポーツをして、スポーツマンシップを磨くのもいい。バックパッカーでもいい。




伊勢神宮に行く途中の道で、恨み面のお坊さんが連れに向かって「師匠が!師匠が言ってるんだよ!!」とヒス起こして怒鳴っているところを見た。見てた通行人は「坊さんが喧嘩してたらいかんなぁ」と言っていたけど、僕はいい声だと感心していた。でもネットでは面白くないな。言葉しかないからただ醜い。


公開の場だからこそ正直になったらどうだろう?貴方の一見、思慮深く、思いやりがあり、温かいモノの見方の 「裏側」 にあるものを・・・。 既に分かっていることがある。それでも貴方が敢えて、この私に口出ししたのは、「○○さんにまた書き込みして欲しかったから」 という欲望だったことを・・・。つまり、真の思いやりではなかった。


ものすごい暗さを発揮してるね。
輝いてるよ


まあ結局、ごく限られた少ない情報だけで、相手の総てを理解したつもりになり、断じてしまう人が多いってことです。その先端を走っていた人が、「真贋の見極め」 云々の言葉をずっと武器にしていたのだから、もはや救い様がない。しかも、あの決意の言葉さえ、未だに他者批判の道具する人もいるわけだ。

「私の意見に同意する人が出る度に、自作自演などと決め付けられる」とも言ってたけど、だからなんだろう。そういう怖れがふと消える日はまだ来ていないようだ。最後に言ったもん勝ちの世界。すごい形相でマジレスを返す。指摘されればそれを上塗りする。こうやって道をあやまっていくんだな。

同じ言葉でも、人によって受け止め方が違う。真剣に自己対峙し、決意を秘めて生きてる人達は、私の言葉から何かを感じ取るかもしれない。その一方で、ただの批判・嘲笑の材料にするしか能がない人もいる。心の性質・方向性の違いなのだろう。心の腐った人は面白いもので、掲示板などで他者の言動を一つ一つチェックし、ストックする。そして過去の言動と少しでも矛盾する(と解釈した)点を発見すると、これがチャンスとばかり批判活動を展開するのである。なんとまあ、ワンパターンな行動に走る生き物なのかと、苦笑いしてしまう。それが1人や2人ではない。
私は自分の過去の総てが正しかったと言ったことはないし、そもそも人間は日々、考え方も感じ方も変化するものだ。それが当たり前であり、むしろ何一つ変化がない人こそ危険である。死人と同じだ。成長も退化も、総ては 「変化」 の流れである。遠い過去から現在に至るまで、総ての思考や言葉が何一つ矛盾無く、完璧に整合している人など、存在するわけがない。

完璧であろうとするほど軋む。流れの悪い川は澱む。議論に埋没するほどその境地を脱しがたくなる。まことにとらわれなく清らかになって初めてその人の霊性は向上してゆく。
心が変われば態度が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。(蓮沼文三)

解決策を全く示さずに、単にカルマカルマと言うだけなら、ただの脅しになりかねない。しかし、私がカルマ論を説くときは、「実践」 が前提のケースが多いわけですよ。なのに、「脅しと受け取る人もいるから・・」 そういうのを 「後ろ向きの解釈」 と言うのです。思いやりを装った難癖と受け取られても仕方ない。私の初歩的なカルマ論さえも、「脅し」 と受け取るような被害者根性の持ち主では、何をやっても無駄です。どんな情報に接しても後ろ向きの解釈をするでしょう。

相手に向かってカルマ・報いを浴びせれば自分自身が同価のカルマ・報いを被ることとなる。その輪廻から一足先にごきげんようすることこそが本義だろう。神ながら、言挙げせずが神道の基本だ。

自覚が無い人には何を指摘しても無理だということが分かりました。本人に自覚が無いのだから、問題点を指摘した人こそ問題だと思い込む。「勝手な決め付けだ」 と信じてしまう。

これもシンメトリカル。
片方にしか非がなければ、その喧嘩は長続きしない。(ラ・ロシュフコー)


こんな当たり前のことも分からない人は、自分の心さえ真剣に見つめたことが無いのだろう。真実から目を背けて、外部を追っかける人である。昨日はそれを指摘したのだが、やはり返ってくる返事は、あんなものである。豚の耳に念仏だ。本質を読み取れず、目先のレスの変化だけを追うから、そんなことにも気付かないのである。
どんなアホでも、繰り返すうちに何かを学ぶはず。しかし、変わる気がない人間は、いつまで経っても変わらない。幾度もの輪廻転生で、同じ思考を後生大事に持ち込む。引き継ぐ。実際、私が今回説明したことは、過去に何度も書いたことである。

肩の荷が降りないなぁ。こういう事を言うのは器の小さい証拠。この人は瞋恚に対処できてないな。怒るぐらいなら書き込まなければいいのに。やめりゃいいのに。煽りをする霊的なグループはそういう霊障を自らが多くこうむっているというそのカルマ・輪廻への確信が、本当は薄いんじゃないだろうか。果てしなく広がる解釈を設けて一方的な定義をしても、果てしない反発が生まれてくるのは質量保存の法則。そして自分以上のことを言っているのだから自分以下の批評食らうのも仕方のないことかな(万有引力の法則)。また真剣に心に対峙していてもそれを誇るようではならない。これは美意識の問題。「人間の心理表現は一筋縄ではいかない」 と陣を敷くのなら弁解すらするな。「今回は、またまた再確認ができた。100人に訴えて、たった一人でも理解できれば充分なことだったのだ・・」なんて減らず口叩くぐらいなら、自然に導く術を得たほうがいい。こいつは独りっ子かな。割り勘になったとき、1円単位まで仕切らないと気が済まない性格なんかな。



人間的意識の痕跡のない仏は自分は悟っているという意識すらない悟りの境地に安住している。論争すればそれから遠ざかってしまう。意識に汚れる。話を逸らしていると言われても、論争に巻き込まれないようにするのが、本当に賢い人なんだな。
とはいえ、論争に巻き込まれることを避けていてはならない。ちゃんとした論争ならいいけど通常喧嘩ごしに変なこと言われる。しかし言い返さず、我慢してみる。「他人のために我慢するのは自分のため」それがわからなければたいしたタマにはならん。
光悦的な態度で反対意見をねじ伏したりこらえ性もなく魔につかれて霊能を扱う者は、なかなか霊性が清らかになることはない。カルマに溺れる。霊障に汚れる。物の怪に足を引っ張られる。いつまでもその境地を脱することができない。
我慢してみるとそういうことがわかってくる。
いつの間にか相手を超えている。我を無くすということを覚えている。相手はいづれ天狗の虜になる。自分は要りませんが「あの人があなたの力を求めてます」。天狗を持ち前の洞察力で振り切り神の境地に至っても、そのうち神使いという神の次元でのカルマを犯すことになるだろう。こらえ性のない者は。
過ちて改めざる、是れを過ちといふ。『論語』



箴言が連続で投稿された

天を見るなかれ。その事実を知らぬ方が良いのだから・・・

今一度歴史を振り返るがよい。血と肉欲で築かれた美しき過去の時を・・・

ある者は神に祈り、また、ある者は悪態をついた。しかし結果は同じだったのである。

この地には何も残っていない。餓鬼が全てを喰いつくしたから。魂さえも残っていない。

お前たちは欲のかたまりだ。欲を取り除けば、何も残らない。

「種」という言葉を忘れ、「個」にしがみついた時すべては発動された。だが、それは定められたものなのだ。

「欲望」は世界を動かす力となった。だが、その巨大な力ゆえに世界は耐えることができなくなる。それがいつなのかを考える者はいない。

支配されたくはない。しかし、支配されている方が都合が良い。多くの場合はそうであった。

「多くの知識」と「多くの欲望」が手を結ぶ。誰か止める事ができるなら・・・。

「有効な知識」、「優れた存在」とは「両刃の剣」となり、安定と破壊を交互にもたらす。

「存在する力」より「破壊する力」が絶対的に大きい。しかしそんな時でも世界は常に前へ一歩ふみ出そうとする。−−知った事ではないのだ。−−

しかし、人は後悔する。それを改めようとする。だが、結果はいつも同じになる。常に人は後悔し続けてきた。

「存在」が消えることを恐れる。その者は正しい道を歩むであろう。「存在」が消えることを恐れている。だから、見えなくなるのだ。

「多くの知識」は「考える」事をうばい去ってしまった。陽はその時、いちばん高く真昼を迎えていた。

人が人であろうとする。当たり前の事を努力しなくてはできない時があった。

「欲望」を満たし続け、尚かつ次の「欲望」の為、人は走り続ける。そのゴールとは存在するのか。誰でも知っている事なのに。

「信じる事の自由」それは大切な事だ。しかし、「教え」を信じるにはあまりに人は単純すぎる。

人は「競争」し勝つ事を教え込まれた。「勝つ事」を知った時、それが悲劇である事も知るべきであった。

人間はもっと知るべきであった。いや、きづくべきであった。世界の「主」ではなく「従」である事を。



異常っていうか完璧イッてしまってる。身体の具合が悪くなりそうだ。

部屋の温度が急降下する異常霊気はそっくり。

脊髄反射的な反応。欲念が燃焼し易い体質なので天狗にもひょいひょいと捕獲されるんだろうな。

浄化と光と破邪と神業。待つしかなかった。時期が長かったがこれで次の回転がかかった。30年分の変化を9年で起こす。これをやらなければすべてが水の泡。

ここが一番引っかかった箇所だ。おそらくアストラルの中途半端なデータを、真実だと勘違いしてるのだろう。この次元は、能力者の想念やカルマが原因で、正しい情報や神々の教えまで歪曲してしまう罠が沢山ある。メンタル体・スピリチュアル体・コーザル体さえも超越した世界を、一度でも垣間見た人なら、「30年分の変化を9年で起こす」 というタイムスパンが可笑しい事に気付くと思う。本当は 「1000年を1年で」 と言って良いほど、時間が圧縮されていることに気付くはずだが・・・。

一番引っかかる場所に問題がある。「人と魔物の世界は、すべて「数」に支配されている。「数」は最大の支配者であった。」と書かれているのに。天邪鬼の裏返しだろうか。単純に読解力がないんだろうか。「人の言葉の通じぬ人がいた。だから悲劇を招いた。」とも書かれている。接触抵抗により微少信号は通過出来ずに欠落して消えてしまう。

お前がどれだけ自己と向き合うことから逃げようとも知ったことではない。だが、いい加減気付け。都合よく利用されていることに。このままではいずれ悪い意味で他者を巻き込むことになるだろう。上祐にでもなるつもりか。


変ですな。能力者や求道者的視点で言動を展開する以上、利用されるのは当たり前であり、私はそれを認識した上でレス活動している。ただ私は基本的に、「自力でやってくれ。依存しないでくれ」 というスタンスだ。自己観照を中心に据えるのも、それ故なのだ。



職業における成果主義は好きだ。キャリアや経験を積み重ねていくのは生きがいだ。でも成果主義が求める成果は言葉だけのものになりやすい。特に、行動の伴わない世界、理解だけの世界では成果とはいろいろな意味を持つようで、それに傾倒して目の寄ってしまった哀れな奴は早くゲヘナの炎に焼かれろいやなんでもない。成果と成果主義のための成果・・・それはプロ野球好きのプロ野球と、プロ野球の話についていくためにプロ野球を研究して生で観戦までしてきたプロ野球ぐらいの違いがある。野心から研究すれば純粋に好きな人よりも知識の嵩は増す。でもその知識は彼にとって夾雑物だ。中身が伴ってない。彼の中身は夾雑物で固められていく。彼自身はもうほとんど夾雑物だといってよい。



霊感のある人が、霊を目撃すると、大抵 「生前の姿」 を見ています。でも、それは霊の持つ記憶の映像化に過ぎません。霊体そのものではない、ということです。アストラル体は巨大な球体ですし、メンタル体は扇状ですし、スピリチュアル体は楕円形です(※異説あり)。人間の肉体は、この物質世界で生を営むのに適切な形状へと最適化されています。犬・ 猫・ 熊・ 雀・ 牛なども、それぞれの 「種」 としての個性や能力を発揮しやすいように最適化された肉体形状です。
それと同じことが幽体や霊体にも言えます。幽界や霊界 (異次元) で活動するのに最適化された形状ですから、肉体とは大きく異なるのが当然なのです。唯一、エーテル体 (生気体) のみ、肉体にそっくりな形状です。
神について想像しにくい気持ちはよく分かります。我々が牛や馬など、人間とは異なる種−species の思考や意志を把握するのが難しいのと同じことです。生物化学的な法則理解は可能でも、心情的・感覚的把握は難しい。
神にも種類や次元の違いがある。純粋観照者としての神もあれば、人間に極めてよく似た神もいるでしょう。
私は加持祈祷で、密教の天部と呼ばれる神々をよく降ろします。祟り神としか思えないような恐ろしい存在も、密教では正神扱いされてるケースが多いです。
神といえども存在に変化はありますよ。「存在」 である以上、宇宙の流転法則から逃げることは出来ない。

単純に思ったのですが、何を目的にそういうことをするのですか?私は加持祈祷などの知識は全くないので、説明についていけない予感ですが。。。 できれば「楽しいから」「筋トレやスパーリングのようなもの」というように、簡単に言ってもらえるとありがたいです。勿論、簡単には無理かもしれないし、個人的なことですから、答えていただかなくても結構ですが。

天部の神については、その前後の文章も読んでください。ちょっと専門的なことも書きましたが、意図は単純であり簡単です。「神にも色々な種類がある」 と言いたかっただけですよ。(におうな)
尚、加持祈祷云々は、知識先行の学者の見解と、体験ベースの行者の見解では全く異なります。似て非なるもの。
我々は現実世界に生きてるのだから、現世利益も大切ですが、それがカルマ浄化につながるもので無ければ本末転倒です。現世利益だけで終わるなら、カルマ的な借金を作ってしまう可能性もあります。真なる加持祈祷は、カルマ浄化と魂の覚醒を促進します。

行や才は敵を打ち負かすためにあるものではない。見せしめた時点でそれまで。それ以上に至るにはそれ以上の努力をしなければならない。あくまで純粋な努力はそのまま積み重ねられている。その地点からふんばれば先へいける。もう一度ふんばればもっと先へいける。似て非なるものかな。
君子は言に訥(ことばのでることが遅いこと)にして、行に敏(ことをすばやくおこなうこと)ならんと欲す。『論語』

いくら自己観照に勤しんでも、「見る目」を設定する本人の意識が、カルマに毒されている。つまりカルマ意識に陥ってる人が、いくら自己観照しても、そこから得られる気付き・ 理解が正しいとは限らない。成長を阻害する 「偽物の気付き」 で自分を誤魔化してしまうこともある。故に、信頼できる師匠のリードを受けたり、加持祈祷でカルマ浄化を進めることに意味が有るわけだ。加持祈祷は自己観照を促進し、また自己観照は加持祈祷をパワーアップさせる。お互いがお互いの効果を高め合う。
質問自体は歓迎ですが、単に好奇心や知識欲を満たすだけなら、かえって障害になるかもしれません。本を読むのも同じことですね。




自己観照って本当に難しいと思う。他人から教えられるものでもなく、他人から強制されるものでもなく、強制するものでもなく、生きる上でどうしても必要だと思った人間が自分で掴み取るものではないのか。生きる上で、これが自分にとって真に大切だと解る過程は、かなり大変なものではないのか。


この人はこの密教僧を弁護しつつ自己を擁護しているのだろう。
誰しも自分の苦渋を誇る。貧乏自慢をしつつ苦労で金を得れば金持ち自慢に変化する。

さて、わしも何か語って聞かせようかの。よくこの方のおっしゃる「自己観照」じゃが、この人はその正しい意味を取り違えて理解しておる。本来の自己観照は自分の意思や行動の自然な動機を見つめる事ぢゃ。分かりやすく言うと、哲学で言うエポケー(具具って調べなされ)にまで立ち返り、自分を見つめ、そこから浮き上がってくる事象のあり方と、自身のあり方の関連を見つめ、真理により近い万物のあり方を知ろうという姿勢ぢゃ。
しかしのう、この不明な方は、ただ自分を見つめ、思考を停止する、という姿勢を語ることによって、明確な自分の思想も持たず、ゆえに他者からの批判を避けるためだけにこの言葉をつこうとる。自己観照という言葉の十分の一程の意味しか理解しておらんのじゃよ。言葉に溺れるようでは、まだまだくちばしが黄色いのう。
わかったかの?人生の苦労も知らずに知識を語るものは、まだまだじゃわ。
こんなひよっこどもの話などより、先人のちゃんとした本を読むのぢゃよ。


風呂から上がって来てみれば、また動いてるなw
自己観照そのものは、特定の思想や体系でもありません。しかし、各宗教に組み込まれています。方法論もまちまちです。何を観照し、何を把握するかの方向性がそれぞれ異なります。故に、「これが正解で、後は間違っている」 といった性質のものではありません。貴方が言われる自己観照も一つの方法ではありますが、それが総てではありません。
またどの体系においても修行階梯があります。中空竹や聖狂気につながるレスを前スレで述べたことがありますが、結局伝わらなかった。自分の思想については、前面に押し出しても意味が無いでしょう。師匠自身が還俗して、独自の境地を切り開いた人ですし、体験が前提だからです。そもそも、私が今まで展開した内容さえも、宗教臭いというクレームがつくことがあるのだ。
この上、更にチダカーシャとかチャーヤウパーサナや、ヨーガ・クリアに基づく超高次元の自己観照と真智について述べたところで、ロムラーはちんぷんかんぷんだろう。2chのレス活動で、自分の引き出しを全部開けてるわけではない。実践すれば分かるし、実践しなければ分からない。頭を満足させるための知識ではない。そして、その選択も自由。一つ理解する度に、知らないことが次々に出てくる。知れば知る程に、「何も知らない自分」 に気付かされる。

知識や経験の豊富さが説得力となっているうちは、本質的な説得力は生まれないな。「何も知らない」というのは知識を知らないということではないのに馬鹿かな。そんな簡単に知らないことを知ることはできるものではない。

>師匠自身が還俗して、独自の境地を切り開いた人ですし、体験が前提だからです。
これは、師匠の体験ではなく、あなた自身の体験をベースにしているという理解でよい?

そういう理解で宜しいと思います。師匠自身が還俗して、独自の境地を切り開いた人ですし、体験が前提だからです。ただし、ある次元に到達したからと言って、その次元の総てを即座に把握できるわけではありません。特に私の場合、「超法規的措置」 で、本来なら許されない筈の恵みまで授かっていますから・・・。やはり修行不足を感じますし、本スレで書いた 「オーラを超えた次元」 は言葉に出来ないですね。しかも、まだまだ上の次元がある。私の今の能力では言語化が困難な場合、古今東西の宗教知識や用語の助けを借りることもあります。

君は優等生だなぁ
ダーマの神殿にいって遊び人に転職すべし
と書いたらこう返ってきた。


先日は仕事をサボって、デートに興じていましたw その昔、巻き込まれた修羅場の体験が原因で、今でも身体に障害が残っており、遊び人の本性を充分に発揮できないのが残念ですが・・・。




出展:頭が禿げない奴は超能力者、俺たちは悪くない [URL]
    【超能力】不思議な力を使ってみよう・4【霊能力】 [URL]
    くり抜き [URL]



神社(じんじゃ)拝詞(はいし)

()けまくも(かしこ) ○○神社の大前(おおまえ)(おろが)(まつ)りて (かしこ)(かしこ)みも(もう)さく 大神(おおかみ)(たち)(ひろ)(あつ)御恵(みめぐみ)(かたじけな)(まつ)(たか)(とうと)神教(みおしえ)のまにまに 天皇(すめらみこと)(あお)(まつ)(なお)(ただ)しき真心(まごころ)をもちて (まこと)(みち)(たが)うことなく 負い(おひ)()(わざ)(はげ)ましめ(たま)家門(いえかど)(たか)身健(みすこやか)()のため(ひと)のために(つく)さしめ(たま)へと (かしこ)(かしこ)みも(もう)

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